中嶋千尋さんは現役時代から変わらぬファッションリーダー、ウエアブランド手掛ける
中嶋千尋プロ(57歳)
躍動的なプレースタイルで人気を博した中嶋千尋プロ(57)。いまウエアブランド「D2-chihiro」も手掛けており、涼しげないでたちで約束の都内カフェに現れた。
レッスンでは自身の体験が生きている。
「現役時代は体の不調もあって練習、トレーニングの制約が多い中でいかに勝つかを考えた自分のためのメソッドがあったのです。それをアマチュアの方にワンポイントアドバイスすると、即効果が出て喜ばれています。普段は仕事が忙しくて会社で重責を担う方々が、子供のように喜んでくださる姿を目の当たりにし、楽しくて、やりがいがあるなぁと思いました」
その経験を積み重ねて、初心者でも取り組めるメソッドに進化させ、“超プライベートレッスン”を中心に、子供が対象の対面レッスンやリモートレッスンを準備中だ。指導のモットーは「技術的向上はもちろん、ゴルフから人生も同時に学べる」を目指す。
「メソッドの原理は万人共通ですが、人それぞれ違う骨格や個性を生かして、自然と身に付き、気持ちよくゴルフを長く楽しんでいただきたいと考えています」
■岡本綾子さんに相談したら…
これまでのプロ経験を生かし、講演活動にも力を入れて企業研修も行うなど、さまざまな分野に活動の場を広げている。そんなバイタリティーあふれる前向きな姿勢は現役時代のたまものといえる。中嶋は初優勝後の1989年から2シーズンを米国でプレーした。
「米ツアー挑戦は初優勝前の87~88年オフに決めていたんです。当時は1勝もしていないので周囲からは反対の声が多かったのですが、(岡本)綾子さんに相談したら『ふ~ん? いいんじゃない。オフに遊びにいらっしゃい』とアメリカを肌で感じさせてくれました。目標を高く掲げたことでモチベーションも上がって、すぐに国内シーズンで初優勝ができた。勝てたことで調子に乗って米国に行ったわけではないんですよ」
■小林浩美プロとは今でも仲良し
中嶋の背中を追うように、1年後に米女子ツアーに参戦した小林浩美プロ(現・JLPGA会長)とは今でも仲良しだ。
「浩美さんが当時、福島弁で『千尋ちゃんができっから、私もできっかと思って(米国に)来ちゃった』と言うから2人で大笑いしちゃいました」
その後、福嶋晃子、宮里藍、そして畑岡奈紗らが続き、後進の道を切り開いた。
「私は無謀なタイプだったかもしれないが、『千尋でもできる』とみんなに勇気を与えた功労賞をもらいたいですね(笑い)」
だが米国での2年間は苦労続きだった。
「ゴルフは下手だし、当時は自分のスイング分析は全然できなくて、強い選手の枝葉を真似するという、ドツボにハマるパターンでバラバラになっちゃいました」
「私のどこがお嬢さんなの?」
洗練されたウエアと明るくハキハキした性格から現役時代の中嶋は、「裕福な家のお嬢さん」というイメージが広がった。
「よくそう言われました。成績が低迷すると『お嬢さんだからハングリー精神が足りない』とか。どこがお嬢さんなの?」と完全否定する。
父親は中卒の一般サラリーマンだった。
「私は『雑草中の雑草』ですよ。小さい頃は体も小さくて弱く、勉強もスポーツもいつも“ビリ”。でも両親(父・久雄さん=享年78、母・陽子さん=84歳)が丸ごと受け入れてくれる安心感はあった。信じて見守ってくれる放牧状態。半面、あいさつや人を傷つけてはいけない、ということだけは厳しかった。『○○しなさい』は皆無だったので、何事も自分で決める、だから人のせいになんかできないですよね。自分で決めるから諦めない力というかクセがつきました」
小学生の時は都内、埼玉、神奈川と4回も転校。自然に囲まれた場所で体を動かすようになったことで、丈夫になっていった。
「両親のおかげで劣等感とは無縁で勉強も運動もビリから急上昇しました」
中嶋は子供を心配する親に向けて、「子供の能力は無限です。信じて見守っていれば、お子さんはうれしくて自分を発揮するようになるはずです」とアドバイスする。
座右の銘は「愛情は平和のもと」だ。
■14歳の時にプロゴルファーを決意
中学時代は水泳部、バスケットボール部、陸上部を掛け持ちして、基礎体力がどんどんついていった。そして14歳の時にゴルフと初めて出合う。父親に連れられて行った練習場でゴルフクラブを握った。その日にプロになる決意をした。
「握り方だけを教わり、ボールを打つと、たまたまバーンと飛んでいった」
「千尋、すごいなあ。おまえならプロになれる」と言った父の一言に、「じゃ、プロゴルファーになる」と即答した。
「5秒くらいで将来の夢が決まり、球を打っている間は妄想三昧です。『18歳でプロになって賞金で両親におうち(家)をプレゼントしよう。21歳で華々しく結婚引退だ』とプロになる前からシナリオはバッチリ。翌日には学校で『私はプロゴルファーになる』と同級生の前で宣言。『千尋ならなれるよ』と盛り上がり、プロへの道に突き進むことになりました。最初の練習はサインでした」
そしてPL学園に進学。
「親は借金覚悟だったはずです。私を含め、初心者が集まったゴルフ部で全く上達しないまま卒業しました。しかしトレーニングだけは充実していたので、プロで活躍したい私にとっては遠回りでも結果的によかったと思います」
3学年下の弟・丈雄さんはPL学園野球部に入った。桑田真澄、清原和博の1年先輩にあたり、外野手として甲子園に出場している。
「経済的には厳しい家庭でしたが、父の生き方はカッコ良くて私たちのヒーロー。母は慈悲深い愛の人で憧れの女性です」
ブランク9年297日
中嶋は「ブランク歴代1位」という珍しい記録を持つ。
初優勝から2勝目まで9年297日もかかった。
「私が2勝目まで頑張れたのは、いい時も悪い時も同じように変わらず応援してくださった方々のおかげです。『優勝インタビューでお礼を言いたい』が私の“命綱”でした」
2勝目を挙げた1998年シーズンを最後に、現役を引退しようと決めていた。この年は開幕から3試合連続予選落ち。さすがに心は折れた。考えがまとまらないまま4戦目の「健勝苑レディス」会場の愛媛に向かった。2打差2位発進の最終日に70で回り、逆転でウイニングパットを入れるとは思わなかった。
「優勝インタビューでお礼が言えたことが本当に良かった」と振り返る。
レギュラー現役中に歯の矯正治療を受け、最後に施された処置による後遺症から首、肩から足腰まで苦しみながら試合に出続けた。
38歳になった2002年は2勝を加えた。
「今は根本治療法が見つかり、だいぶ良くなったけど、体全体がガタガタのままよく頑張ったと思います」
「雑草中の雑草」と自負するだけにプロ人生の「息の長さ」は際立った。
「往生際が悪いんですよ(笑い)。『できない理由よりもできる方法を考えたい』『前例がないからこそ、やりがいがある』タイプなので、それも粘れた要因かもしれません」
04年6月にはプロデビューの宮里藍が“19歳バースデーウイークV”を飾った「アピタ・サークルK・サンクスレディス」で、40歳の中嶋は古閑美保とともに3位タイに入った。若々しいプレーぶりが健在だった。
■49歳の時にA.ソレンスタムと同じ「63」をマーク
また「盛り上げ役」として参加した97年のドラコン大会で272ヤードを計測して優勝。04年11月には日米両女子ツアー共催「ミズノクラシック」初日にアニカ・ソレンスタムとともに「63」をマークして首位タイ発進。これが40歳にして中嶋の自己ベストスコアでもある。
「もうヘトヘトでした。(歯の治療の後遺症で)体調も悪いから、ほおには疱疹もできていた」
華やかな女子プロの中でもファッションリーダーとして注目された中嶋は、引退前にゴルフウエア・ブランド「D2-chihiro」を商標登録した。Dはドリームで「2つ目の夢」の意味だという。
「デザイナーだけをしたかったけど3年間は全工程を知ろうと、デザイン、工場との打ち合わせ、サンプルチェック、ネーム札やジャンコーネーム札やジャンコード、販路探し、店頭ディスプレー、パソコンも覚えた。なにもかも初めて尽くし、やること多すぎて寝る時間なかったです~」
「今は当たり前になったスカート&レギンスは90年代前半から着ていた専売特許? です(笑い)」
先駆者として華やかさを増した国内女子選手たちへのアドバイスは?
「ショット精度の高い新星がどんどん現れ楽しいです! ウエアはもう少し良さを生かす着こなしができたら、もっとステキになりそう。欠点を隠す着こなしは得意分野ですから(笑い)」
活動領域はますます広がりそうだ。
(構成=三上元泰/フリーライター)
▽中嶋千尋(なかじま・ちひろ) 1964年1月31日生まれ、東京都出身。85年プロテスト合格、88年「ダンロップ・レディス」初優勝。同年米ツアーQTに合格し、翌89年から2シーズン参戦。98年「健勝苑レディス・道後」でブランク歴代1位記録の9年297日ぶりに2勝目。2002年にも2勝を挙げ通算4勝、04年は40歳で自己ベスト「63」マーク。170センチの長身スレンダーなファッションリーダー。現在、一般社団法人「プログレッシブ アスリート アソシエーション」理事など多分野で活動。座右の銘は「愛情は平和のもと」。