<4>「東洋の魔女」を口説くため、仕事が終わるとニチボー貝塚へ日参した
そして迎えた70年。前年10月、ニチボーが日本レイヨンと合併。社名がユニチカとなり、チームもユニチカ貝塚に変わった。日本リーグなどを制したユニチカの小島さんが初の全日本監督に決まった。貝塚のコートでは、ユニチカと全日本の2チームが練習することになった。この頃は全日本のメンバーと会話する機会も増え、小島監督からは名前を呼ばれるまでになった。
「ユニチカは無理でも、全日本ならオニツカを履いてくれるかもしれない」
そんな思いが通じたわけでもないだろうが、小島監督から「植月君、どうせやるなら全日本の球拾いをやってくれよ」と言われた。
ブルガリアでの世界選手権は9月22日開幕。全日本の練習は日に日に厳しさを増していく。ユニチカといえば大松監督の時代から「つなぐバレー」が持ち味。全日本の合宿ではレシーブ時間に多くの時間が割かれ、ボール拾いも忙しくなった。
世界バレーを翌月に控えた8月初旬、和歌山県の全国高校総体(会場は10府県)で、オニツカは奈良県の会場に売店を出していた。ある日、上司から電話があった。