<4>「東洋の魔女」を口説くため、仕事が終わるとニチボー貝塚へ日参した
翌日、上司に毎日定時で終える許可をもらいにいった。
「なんでや?」
「ニチボー貝塚をどうにか落としたいのです。もちろん夕食代も交通費もいりません」
「わかった」
その日から貝塚工場に通って練習の球拾いが始まった。帰宅は連日深夜でも、8時の始業時間に遅れたことはなかった。
■「いつかオニツカを…」
背広からポロシャツに着替えて連日の球拾いも、小島監督や選手は相変わらず冷たい。試合会場に新モデルのシューズを持参したときには、ある選手に投げ返されたこともある。
「いつかオニツカを履かせてみせる……」
悔しさを何度もこらえ、体育館でボールを拾い続けていた。
この間に行われた1968年のメキシコ五輪は日立、ヤシカの選手が中心。日立の山田重雄監督が指揮を執り、ソ連に負けて銀メダルだった。