牧田和久(1)13年台湾戦 日本を救った“決死のダイビング”を国際大会のスペシャリスト語る
牧田和久(2013、17年大会出場/元西武、パドレス、楽天、台湾中信兄弟)
2013年2月。宮崎市内のホテルで行われた代表ミーティング。主将に任命された阿部慎之助(巨人)をはじめ、田中将大(楽天)ら錚々たる28人の代表メンバーが一堂に会した。
当時28歳。プロ1年目の2011年は先発、抑えとして5勝7敗22セーブ、防御率2.61。12年は先発に専念し、13勝9敗、防御率2.43と好成績を残していたが、当初は居場所がないと感じていたという。
「日本を背負ってプレーすることは非常に光栄なことだと思いつつも、まさか自分が選ばれるとは思ってもみませんでした。自分よりも凄い選手がたくさんいる中、プロの実績がない人間が選ばれていいのかと。当初は緊張していたことに加え、少し人見知りなところもあって、みんなに気軽に話しかけていいものか……と不安でした。自分の投げる場所もほとんどないだろうなと思ってました」
■球が手から離れる感覚が消えずWBC球に試行錯誤
WBC球にも苦慮した。
「特にカーブを投げるのが難しかったです。僕はボールをリリースする最後の最後にボールを押し込む感じでスピンをかける。でも、もう一押しをしたいと思っても、球が手から離れる感覚が消えなかった。カーブを抜こうとすると、思った以上に抜けてしまう。軌道も若干変わることもあって、キャッチボールの時から、強くボールを握るなど、試行錯誤し続けました」
大会直前の壮行試合で結果を残し、山本浩二監督から抑えに指名されたが、本番に突入してもWBC球を使った投球に手応えをつかめないでいた。
「自分の持っている力以上は出ないと、ある意味開き直って投げていました。もちろん、勝たなきゃいけない気持ちはあるんですが、頭の片隅に置くくらいで。絶対に抑えようと思うと、自分の投球ができないし、腕も振れなくなる。いつも通りの自分のピッチングをして、それで打たれたらしょうがない、と」
消極的になりがちなメンタルのコントロールに努めたことが奏功し、本大会では3試合に登板、1勝1セーブ、防御率0.00と結果を残した。