「且坐喫茶」いしいしんじ著
たまたま京都の古い地域に住んでいたので、お茶は割と近かった。近所の同級生のひとりが家元の息子だったり、友だちのお母さんがお茶教室の先生だったり。小学生の頃だ。例の家元の家が年に一度の初心者向けお茶会を開いた。子どもたちも参加できるという。私も行った。そしてうっかり飲んだ。ひとくち含み、ひとこと叫んだ。「にがい!」。その瞬間、お茶が遠くへ逃げていった。
あれから30年……。もう二度と叩くことはあるまいと思っていたお茶への門が開かれた。この本に出合ってしまったがために。「先生宅の門をくぐったとき、僕はアロハシャツにジーンズ」。冒頭の描写を目にしたが最後、門をくぐらないではいられなくなった。
砧公園、鎌倉、横浜の茶道空間、ゑんま堂、建仁寺、常照寺、福岡にある芦屋釜の里、長崎の碧雲荘……各所で行われるお点前。その空間に身を置くたび、作家は「お茶」とはなにかを問い続ける。たとえば、お茶とは、「旅ではないのか」と気づく。そこから、「たえまない『うち』と『そと』の汀、中間領域」だ、と展開する。さらには、「祭である」と表現し、「京の祭礼は、すべて茶事、宴だ」とまで言う。あるいは「濃茶」は「みどりの血じゃないか」と見る。ある新しい茶碗が運ばれてくるさまはこう描く。「どこか艶めいて、赤ちゃんだったのが女の子に、濃茶が入るとみどり髮の少女に、湯がそそがれると湯気をたて、ひとりの女性としていま、薄闇に立ち上がる」。そして、「お茶は、その気になれば、これほどまで軽々と宙に舞い、遊ぶことができる」と続ける。やがて、「お茶は自由だ」という思いに至っていく。
目の前の風景と、今はなき「先生」との対話が交錯する。歪みゆく時空間のなかで、ああこの読書もまたお茶なのか、と何度思ったことか。
本を閉じる。すると、「先生」の言葉が私の耳にも聞こえてくる。「お茶って、わかりません」。そうか、先生でもそうなんですね。「わからないから、楽しいんじゃない」。はい、先生。と返答しそうになり、思った。おや、私はすでに入門しているのか。もしかすると、あの小学生の時点から? 著者のいうように、「『終わり』は『始まり』、『始まり』は『終わり』」だとすれば、確かに。(淡交社 1700円+税)