張学良が突きつけた日本人への問い
「張学良秘史」富永孝子著/角川ソフィア文庫
1936年12月12日に「西安事件」は起こった。その8年前に中国東北部の軍閥の長だった父、張作霖を日本軍によって爆死させられていた張学良は、国民党を率いていた蒋介石に、中国共産党と戦わずに日本軍と戦え、と迫る。西安にやってきた蒋を捕らえて「容共抗日」を強硬に主張したのである。これが「西安事件」だった。ここでの切迫した協議には周恩来も加わっている。張学良は著者に「周恩来という人は、信頼できるすばらしい人格者でした」と語ったという。
この事件の解決のために南京から飛来したのが蒋介石夫人、宋美齢だった。孫文未亡人、宋慶齢の妹である。
本書によると、宋美齢は張学良と結婚しようか、蒋介石と結婚しようか、迷ったことがあるらしい。もちろん、蒋もそれは知っていただろう。学良は蒋を監禁して「抗日」に踏み切らせ、その後、南京へ送っていったために、激怒していた蒋から半世紀も幽閉されることになるが、美齢をめぐる2人の男の関係はまさに「秘史」である。
学良は「花花公子」(プレーボーイ)として知られていた。この本の副題にも「六人の女傑と革命、そして愛」とある。ただし、単なるプレーボーイではなかった。
NHK取材班、臼井勝美著「張学良の昭和史最後の証言」(角川文庫)によれば、1901年生まれの学良は1990年に行われたインタビューで、こう語っている。
「日本人は、丁寧で親切でした。しかしその一方で、日本人に対して不満を感じていました。それは、いつも中国人に対して、権力でお前を服従させてやるといわんばかりに、しばしば、日本はこれだけの力があるのだと見せつけようとすることです。私は、力を振りかざすものに対しては、恐れることなく反抗する人間です」「私は日本の若者にぜひとも言いたいことがあります。日本の過去の過ちをまずよく知ってください」
こう訴えた学良は、逆に取材班に次のように尋ねたという。
「日本は何故東条(英機)のような戦犯を靖国神社に祭っているのか。靖国神社に祭られる人は英雄である。戦犯は日本国家の罪人ではないのか。彼らを祭っているのは、彼らを英雄と認めたからなのか」
これは私たち日本人に突きつけられた匕首のような問いである。★★★(選者・佐高信)