名作「私の20世紀」監督の30年ぶりの新作
かつて冷戦崩壊直前のハンガリーから登場していきなりカンヌ映画祭の新人賞をさらった映画があった。「私の20世紀」。光の寓話とでもいうべき魅惑的な映画なのだが、その後は監督のイルディコー・エニェディの名前をついぞ聞かなかった。その、およそ30年ぶりに本邦劇場公開の新作が先週末封切られた「心と体と」である。
冒頭、美しい雪の雑木林に2頭の鹿が現れる。立派な角を持ったオスと、一回りも体の小さなメス。彼らがそっと近づいて鼻先を触れ合うなまめかしくも象徴的な場面につづくのは、衛生管理された食肉工場に勤務する男女のぎこちない接触。女は美人だが陰気そうで、男はみるからに堅物の頑固おやじ。およそ不釣り合いなふたりだが、しだいにあの鹿たちが彼らをつなぐ切ない絆であることが知られてくる。その痛切な孤独感が、若者とは一線を画す大人の恋愛映画を成り立たせている。
社会学者のゲオルク・ジンメルは人間関係を種々の「形式」に分類したが、わけても秀逸なのが彼の恋愛論、とりわけ「コケットリー」(こび)を論じた論文だ。
「社会学の根本問題」(岩波書店 580円)にいわく、「コケットな女性は、結局は本気でないにも拘わらず、謂わば男性に完全に与えそうなところまで行くことによって、彼女の魅力を最高に増す」。
落ちそうで落ちない手練手管ということだが、あの映画の彼女(ハンガリーの舞台女優アレクサンドラ・ボルベーイが演じている)が、これを読んだら果たしてどんな反応を示すだろう。
<生井英考>