「ペインレス」(上・下)天童荒太氏

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 これまで「永遠の仔」や「悼む人」など心の痛みに向き合う作品を世に出してきた著者が、最新作で“無痛”を描き出した。痛みを感じない男女の激しい性愛、世界の成り立ちや現代社会のさまざまな問題も浮き彫りにさせていく、構想20年の大作だ。

「20年前というのは、事件や事故など痛ましいことが起きたときに、その責任を個人や家庭に押しつけるようになった始まりの時期でした。そんなとき肉体に痛みを感じない人がいると聞き、その人を主人公にすれば痛みの扱いが混乱している社会に対して、ひとつのアンチテーゼ的存在になるのではと思ったんですね。その後、『悼む人』など心の痛みを描きながら、ずっと痛みについて考え続け、あるとき、心と体の痛みを感じない男女が出会ったらひとつの物語が生まれるのではないか、とひらめいたんです」

 主人公はペインクリニックに勤務する、生まれつき心の痛みを持たない若き美貌の女医・野宮万浬。そんな彼女の前に、テロに巻き込まれ、体の痛覚を失った青年・貴井森悟が現れる。

 快楽の在りかを求めて多くの男と関係を持ってきた万浬にとって森悟は格好の実験相手。「診察したいんです。あなたのセックスを」と誰もいない診察室に誘い込む。

 万浬は力をゆるめて腰を沈めてゆき、相手のからだをまだ浅い内側の肉襞に感じた――。

 森悟はやがて射精に至る。しかし快楽は薄い。本来、性愛は痛みと表裏一体だからだ。

 神経細胞の興奮が過剰になり、万浬の眼裏に無数の小さな光がひらめく――。

 医療用語と官能的な言葉で彩られた性愛シーンは濃厚で、活字を追って想像せずにはいられない。

「心に痛みを感じないので通常の恋愛にはならないけれど、性愛は可能だと思ったんです。ただし、一般的なそれとは異なり、人間にとって性愛とは何かを探り合うようなものになるだろうと。本当の快楽や喜び、人間にとっての性愛の意味を問うような、今まで誰も書かなかった世界初のエロチシズムを表現できる、と直感して震えました」

 物語は、3代にわたる万浬の家系やかつて経験した痛みの再現を望む老人の過去などを織り交ぜながら、展開していく。

 登場人物たちは「人は痛みに支配されている」「自分や愛する者を傷つけられた痛みが、暴力や戦争を生む」と語り、「世界は痛みで出来ている」と説いていく。

「人間の歴史や文明は痛みからの脱却をもとに発展してきたことを主人公たちが教えてくれました。そして我々は『愛』をこの世の最高のものとして据えているけれど、本当にそれは正しいのか、ということも。知性や理性でなく感情に左右される今の社会を見ると、このままでは崩壊するでしょう。万浬という存在を登場させることで『今の人間の脳では世界は救えないかもしれない』と伝えたかったんです。物語の中で仮託した人物たちが、私では思いもしなかった考えをさまざま示唆してくれました。改めてフィクションが持つ可能性を感じましたね」

 作中、要所要所に「壁を超える」という言葉が出てくるが、万浬は「壁=愛」を超え進化した存在の比喩として、森悟は、彼のバックグラウンドも含め旧来の価値観の中で生きるシンボルとしての対比も興味深い。やがて2人はお互いの世界へ引っ張り合おうとし、ラスト、万浬の衝撃の提案に森悟は――。

 4年余りの執筆中、肉体的にも精神的にも追い込み、痛みの思想に向き合ってきた。

「強度のストレスでアトピーになりました。執筆が終わったら引いたんですが、ゲラが返ってきたらかゆみがまた出て。このときばかりは森悟が羨ましかった(笑い)」

 これまでの著者の作家像を覆す600ページに及ぶ渾身の傑作だ。 (新潮社 各1500円+税)

▽てんどう・あらた 1960年、愛媛県松山市生まれ。86年「白の家族」で野性時代新人文学賞を受賞し、デビュー。93年「孤独の歌声」で日本推理サスペンス大賞優秀作、96年「家族狩り」で山本周五郎賞、00年「永遠の仔」で日本推理作家協会賞、09年「悼む人」で直木賞を受賞。その他、著書多数。

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