性の革命前のイギリスを舞台にした悲恋
小説の風趣は一にかかって文章にある。同じ筋立てが文章しだいでまったく違うものになるのである。
同じことが原作小説の映画化にもいえるだろう。映画化の失敗という話ではない。むしろ映画と原作の微妙な「文体のずれ」に趣が生まれる、ということだ。その好例が8月10日封切り予定の「追想」である。
1962年、まだ対抗文化や性の革命が訪れる直前のイギリスで、一目惚れの若い男女が不器用な付き合いを重ねてやっと結婚に至る。ところがその初夜、思わぬ失敗が彼らの身に降りかかり……という筋立ては喜劇にも風刺にもなり得る。
なにしろこの時代の未婚の男女にとって「キス以上」は別世界だったのだ。それをマキューアンは持ち前の技巧的な文章ひとつで希代の悲恋のごとくに仕上げた。
となると映画化は難事業だ。本人たちには大まじめで深刻な試練だが、客観的にはほとんど大笑い(特に現代のすれた観客には)になりがちな話をどうしたら悲恋に描けるか。そこで監督のドミニク・クックは巧みに「通俗小説」の語り口を取り入れた。結果、映画は半世紀以上も前の62年という時代のあやを、単なるノスタルジーに陥ることなく映画に蘇生させたのである。
その出来栄えは映画を見てもらうとして、性革命以前の時代の「通俗小説」の代表格が三島由紀夫著「永すぎた春」(新潮社 520円)である。いみじくも「もはや戦後ではない」と経済白書がうたった昭和31年に「婦人倶楽部」に連載されてベストセラーになった有名な作品だが、戦前なら「身分違い」とされただろう恋愛が婚約にこぎつけながら、「接吻以上は禁欲」という制約つきで長々と引き延ばされる悲喜劇。中盤から作者の悪癖によるひねり過ぎで上滑りになってしまうものの、前段は「初夜」とよく似ている。時代が違えばこうも違うという見本のようだ。 <生井英考>