「記憶術全史」桑木野幸司著
F・トリュフォーの映画「華氏451」は本の所持を禁止された世界を描いたものだが、その中に、本をまるごと暗記している「本の人々」が登場する。プラトンの「国家」やオースティンの「高慢と偏見」などを一言一句違わず暗記し、物語を語り継いでいるのだ。
こうした超絶の記憶力はフィクションではなく、かつてのヨーロッパ世界では、記憶力を鍛える技法=記憶術が隆盛を極めた。ルネサンス期のイタリア人法学者はこの技法を使い、聖書の無数の文言、膨大な大学講義の内容、2万にも及ぶ法律書の要点や注釈を記憶し、それらを自由に取り出すことができたという。
古代ギリシャに誕生した記憶術は紙の調達が不自由だった古代世界で発達、中世期には一時下火になるがルネサンス期に復活し独自の変容を遂げていく。本書はそうした記憶術の歴史的変遷をたどりながら、この秘技がヨーロッパの知的世界にどのような影響を与えたのかを一望したもの。
その具体的な方法は、まず頭の中に情報の器となる仮想の場所(建物や部屋、人体など)を設定し、次に記憶すべき情報をイメージ化(王ならライオン、戦争なら剣など)し、それを場所に結びつける。その作業をくり返して全体を秩序立てる。なんとも面倒なようだが記憶術に関する本が大量に出回り、実用的な技術として重宝されたのは事実。またこの秩序的空間連鎖にイメージ情報を組み合わせる仕組みは現在のデータ処理システムとも一致しているという。
注目すべきは、途絶えていた記憶術が復活したのは、印刷術の発明により情報量が飛躍的に増大したことが一因だということ。インターネットによって日々膨大な情報にさらされている今日、果たして新たなる記憶術の復活はあるのだろうか。
<狸>
(講談社 2000円+税)