エピソード記憶を失った男の物語

公開日: 更新日:

「女王ロアーナ、神秘の炎」(上・下)ウンベルト・エーコ著、和田忠彦訳 岩波書店 各2400円+税

 したたかに酔っぱらい、前後不覚に陥ったにもかかわらず、気づいたらベッドで寝ていた――酒飲みなら、一度はそんな経験があるはず。この帰巣本能ともいうべき体が覚えている記憶のことを「手続き記憶」という。

 それに対して、幼い頃の思い出といった個人的な経験の記憶は「エピソード記憶」、歴史の年号のような学習によって得られた記憶は「意味記憶」という。とまあ、一口に記憶といっても、いろいろあるわけだが、本書は、エピソード記憶を失った男の物語である。

 ミラノで古書販売を営むヤンボことジャンバッティスタ・ボドーニは60歳を前に事故で記憶喪失となる。ナポレオンの伝記的事実や歯磨きの仕方は覚えているのに、自分の名前や家族に関する記憶が抜け落ちてしまったのだ。心配した妻は、ヤンボがかつて親しんだ本や雑誌、レコードに囲まれて暮らせば記憶を取り戻すことができるのではないかと、彼が幼年期を過ごした祖父の家へ行くことを勧める。そこで喚起されるヤンボの記憶の断片は、挿絵としてはめ込まれた色刷りの雑誌の表紙、映画のポスター、漫画のひとコマ、レコードのジャケットなどによって形を与えられていく。

 主人公の年齢や育った場所、知的環境などはエーコと共通しており、これら幼年期の記憶はエーコ自身のものでもあり、極めて自伝的色彩の濃い作品になっている。幼年期から青年期にかけての読書や音楽の体験の他、彼自身のヰタセクスアリス(性欲的生活)や友人との神学論争も登場し、エーコの知的形成過程をたどるようで興味深い。

 エーコは「小説講座」の中で、この作品を「主人公が1930年代の思い出の品々をまるで考古学者のように発掘していく物語」だと語っているが、記号論学者にして小説家でもある知的巨人の個人史であると同時に、20世紀前半の文化史・精神史としてもユニークな仕立てとなっている。 <狸>

最新のBOOKS記事

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    高嶋ちさ子「暗号資産広告塔」報道ではがれ始めた”セレブ2世タレント”のメッキ

  2. 2

    フジテレビ「第三者委員会報告」に中居正広氏は戦々恐々か…相手女性との“同意の有無”は?

  3. 3

    大阪万博開幕まで2週間、パビリオン未完成で“見切り発車”へ…現場作業員が「絶対間に合わない」と断言

  4. 4

    兵庫県・斎藤元彦知事を追い詰めるTBS「報道特集」本気ジャーナリズムの真骨頂

  5. 5

    歌手・中孝介が銭湯で「やった」こと…不同意性行容疑で現行犯逮捕

  1. 6

    大友康平「HOUND DOG」45周年ライブで観客からヤジ! 同い年の仲良しサザン桑田佳祐と比較されがちなワケ

  2. 7

    冬ドラマを彩った女優たち…広瀬すず「別格の美しさ」、吉岡里帆「ほほ笑みの女優」、小芝風花「ジャポニズム女優」

  3. 8

    佐々木朗希の足を引っ張りかねない捕手問題…正妻スミスにはメジャー「ワーストクラス」の数字ずらり

  4. 9

    やなせたかし氏が「アンパンマン」で残した“遺産400億円”の行方

  5. 10

    別居から4年…宮沢りえが離婚発表「新たな気持ちで前進」