<38>まるで夜の海に浮かぶ宝石のよう
「えっ!? ……要は、水谷君の記憶でコールドウォレットの秘密鍵を管理するってことか?」
七沢一郎が訊いた。
「そうです。そうすれば、絶対にハッキングされませんし、我が社の売りである取引処理のスピードも失われません」
矢作幸作が答えた。
「はー、なるほどねえ」
水谷は神がかり的な記憶力を持っており、これまでもいくつかの仮想通貨の秘密鍵を自分の記憶で管理していた。
七沢が水谷に視線をやると、元々神経が細い上に、今回の騒動で相当参っているような顔つきをしていた。
「ところで、ネムの補償額は、どうするのかね?」
「はい、現在の一XEM(ネムの取引単位)八十八・五四九円(八十八円五十四銭九厘)で全額補償しようと思います」
「しかし、ハッキングされた時点では、百十円くらいだったんだろう?投資家が納得するかね?」
コインドリーム本社前には、連日投資家が集まり、経営陣に面会を求めたり、ハッキング時点でのレートによる補償を求めたりしている。
「まあ、文句をいう投資家は一部いると思いますが、まったく返ってこない可能性もあったわけですから」
「僕は、百十円で返したほうがいいと思うんですけど……」
憔悴しきった顔の水谷がつぶやくようにいった。
水谷が住む渋谷の億ションにまで押しかけて来る投資家がいて、悩まされていた。
「いや、しかし、百十円でやると補償額が百五十五億円も増えちゃうから」
矢作がいった。
「百五十五億円!? それはでかいな」
差額を知って、七沢も同調するかまえになった。
翌晩――
太った米国人の男が、東京・汐留にある高層ホテルの三十七階のスイートルームのソファーで、左腕に括り付けたノートパソコンをカチャカチャ操作していた。
広く穿たれた窓からは、眼下に浜離宮恩賜庭園の緑や池が見え、その先に、月島や豊洲のビル群やレインボーブリッジが、青い夜の海に浮かぶ宝石のように煌びやかな光を放っている。
(やはり、相当分散しやがったな……)
長めの髪を頭の両脇に垂らした男は、ノートパソコンの画面を睨み付ける。
青みがかった画面に、コインドリーム社から盗まれたネムの取引履歴が表示されていた。各取引ごとに、日時、取引量、送金先アドレスなどが一行に示され、それが横縞のように画面の上から下までずらりと並んでいた。
米国人の男は、奪われた自分のネムを取り返そうと、タグ付けされたネムを、ネット上の台帳であるブロックチェーンを辿って追跡していた。
盗まれたネムは、最初の流出先のアドレスからさらに十のアドレスに送られ、そこからさらに三十以上のアドレスに分散送金されていた。
(これはおそらく、ダーク・ウェブで何かやってるんじゃないか……)
米国人の男は、アイコンの一つをクリックし、新たなブラウザを立ち上げる。
暗い色調の画面で、半分に切った玉ねぎがゆっくりと回転していた。ダーク・ウェブにアクセスするためのトーア(TOR)と呼ばれる特殊なブラウザだ。
(つづく)