“読書”について書かれた本特集
「ぜんぶ本の話」池澤夏樹、池澤春菜著
愛読家は、読書についてそれぞれ一家言を持ち、往々にして世に出回る読書論に対しては、偏見を抱きがちだ。しかし、食べず嫌いという言葉もあるように、いざ読んでみると意外な発見があるもの。知らなかった読書の方法や、本との向き合い方、そして未読の著者や掘り出し物の一書との出合いまで。マンネリになりがちな読書に新風を送り込んでくれる読書論を集めてみた。
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作家の父と、声優のその娘が大好きな本について語りつくした対談集。
幼少から父の本棚があった屋根裏部屋に潜り込んで本を読んでいたという春菜氏は、当時から年間300冊以上を読破。そんな彼女が最初に読んだ、岩波ようねんぶんこの「こぎつねルーファスのぼうけん」にはじまり、夏樹氏が「キップをなくして」の執筆時に児童文学の基本形として参考にしたケストナー作品の数々、そしてその基本にある世界観は農業だという「星の王子さま」まで、まずは児童書について語り合う。
他にも春菜氏が父の書庫で出合い夢中になり、古典から現代まで網羅しているというSF、さらに夏樹氏の父親である福永武彦作品まで。ジャンルごとにお互いが大好きな本について語る。250余冊が登場し、ブックガイドとしてもお薦め。
(毎日新聞出版 1600円+税)
「それでも読書はやめられない」勢古浩爾著
数えるほどしか本を読んだことがなかった著者だが24歳で開眼。以後、約1万冊もの本を読んできたという氏が、その読書遍歴をつづった読書論。
友人に薦められ手にした吉本隆明著の「情況」を読み、人生が百八十度変わるほど感銘を受けたという氏は、吉本作品を手当たり次第に読破。本に出てくる作者名を手掛かりに、それまで小説も詩も読んだことがないのに、文芸評論、さらに小説へと読書の幅が広がっていく。
その後、精神分析の本へと触手がのび、やがて基本を学ばなければと王道の名作文学、さらに名著といわれる哲学書の森に迷い込み「自分をこじらせて」しまう。そうした経験を経て、今は娯楽だけの読書で100%満足するようになったという。そんな自らの読書遍歴を茶道の「守破離」という言葉になぞらえ語る。
(NHK出版 900円+税)
「中年の本棚」荻原魚雷著
40代を目前にして、それまでに確立した仕事の方法論が通用しなくなったと感じた著者は、野村克也が引退翌年に出した「背番号なき現役」という本で「四十初惑(四十にして初めて惑う)」という言葉を目にする。遡ると、評論家の扇谷正造や、作家の吉川英治らの書物にも同じ言葉が出てくる。それらの本をひもときながら、大先輩たちが「四十初惑」というくらいだから、この先も迷い続けるはず。迷ったときは野村が座右の銘にした「我以外皆我師(われ以外みなわが師)」と同じく、学べばいいと、中年に関する本が著者の蔵書の一角を占めるようになったという。
そうして出来上がった「中年の本棚」から、中年を生きるための支えとなってくれる本の数々を紹介してくれる中年のための読書エッセー。
(紀伊國屋書店 1700円+税)
「『街小説』読みくらべ」都甲幸治著
「小説には街そのものが詰まっている」という著者が、思い出の街にちなんだ作品を紹介するブックガイドエッセー。
金沢は、父の転勤で中学2年の終わりで引っ越し、大学進学で上京するまで過ごした地。高校時代にその詩がお気に入りだった室生犀星の自伝的小説「幼年時代」や、金沢に赴任した教師が雪下ろしに格闘する古井由吉の「雪の下の蟹」、商人が商用で訪れた金沢に家を借りて仕事の合間に通う吉田健一の「金沢」の3作を自らの思い出を語りながら読み解く。
以後、大学院時代を過ごしたロサンゼルス、中学校への乗換駅だった吉祥寺、祖父母が暮らしていた福岡など、8つの街を取り上げる。著者を含め時代も個性も異なる4人の作者の視点で表現される街が、読者の心の中で立体的に浮かび上がる。
(立東舎 2200円+税)
「積読こそが完全な読書術である」永田希著
うしろめたさを感じるあの「積読」こそが「完全な読書術」だと勧める異色読書論。
積読には2種類あり、その1つが本に限らず、大量供給される映画や音楽、ゲームなどを消費できぬまま時間が過ぎる「情報の濁流」状況だという。現代人は買わずとも、読みたい、見たい、聴きたいなどの気持ちだけが「積まれる」状況に身を置いている。
もう1つが、その情報の濁流に自律的に構築される積読。それを生き物が暮らす人工的な環境になぞらえ「ビオトープ的積読環境」と命名。「本で床は抜けるのか」(西牟田靖著)や、「読んでいない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤール著)などの読書論をひもときながら、情報の濁流から身を守るとともに、「ビオトープ的積読環境」を構築・運用する方法を説く。
(イースト・プレス 1700円+税)