香山リカ(作家・精神科医)
5月×日 安倍政権時代には“やられっ放し”だったマスメディアが、ちょっとだけ変わってきたのを感じる。たとえば、毎日新聞は中心に「入管・難民問題」という特集班を組み、入管収容中に亡くなったスリランカ人女性ウィシュマさんの問題や入管法改正についてデジタル版を中心に報じ続けた。そこには「両論併記」の姿勢はなく、徹底的に人権の立場からの発信であった。あまりの事態に、記者たちはハラをくくることにしたのだろう。
「共同通信ヘイト問題取材班」のひとりである角南圭祐氏が最近、出した著作「ヘイトスピーチと対抗報道」(集英社 968円)を読むと、在日コリアンなどへの排除、殲滅を叫ぶヘイトスピーチとの闘いは、記者にとっては公正中立、不偏不党というメディアの金科玉条との闘いであることがよくわかる。ヘイトデモの現場に駆け付け、大声を出すなどして差別煽動発言を止めようとするカウンターと呼ばれる集団を見て、記者の中にも「どっちもどっち」と思う人がいるという。しかし、と角南氏は言い切る。ヘイトデモに「カウンターが駆け付けて『無効化』しなければ、ヘイトが垂れ流しになってしまう」。後半ではさらに、「ヘイトスピーチも『表現の自由』」と考えてデモの警備をする警察や憲法学者などに「どちらが正義なのか」と問いを突きつける。「両論併記」ではヘイトはなくならない、と角南氏もまたハラをくくったのだ。
もちろん、「これが正義だ」と決めることには危険もある。毎日新聞記者の大治朋子氏の「歪んだ正義」(毎日新聞出版 1760円)には、その思い込みが暴走し凶悪化する事例が出てくる。イギリスのジャーナリスト、ジェイミー・バートレットの「操られる民主主義」(秋山勝訳 草思社 1045円)にも、一度、正義を信じると自己正当化が無限に増幅されていくネット社会の危険性がリアルに描かれている。
とはいえ、両論併記、不偏不党を貫いた結果、日本では権力の一方的な肥大や民意の無視が起きてしまったことを、メディアも私たちも思い出すべきだ。「どちらが正義なのか」と常に自らに問いながら日々を送りたい。