「この道」古井由吉著
眠れぬまま迎えた夜明け、テラスに出ると細い雨が降り始めた。間もなく梅雨だ。はるか昔の少年時代、召集された近所の青年に見守られながらこたつで昼寝をしたことがあった。青年はラジオで覚えた落語や軍歌を聞かせてくれた。
敗戦後、青年の戦死を人づてに聞いたが、いつどこでのことだったのかも知らずじまいだった。一時期同居して、幼い私をかわいがってくれた母方の叔父は戦地で病死した。死者はいつまでも若い。戦乱に果てた青年が若いまま記憶にとどまっているのを振り返ると、自分はここまで何を思って生きてきたのかと悔いのような念を抱く。
2年前に亡くなった著者が最後に刊行した小説集。迫りくる死と向き合い、現実と虚構のはざまで描かれた珠玉の8作。
(講談社 704円)