「慶州は母の呼び声」森崎和江著
「慶州は母の呼び声」森崎和江著
数年前、訪ねたお寺に7段の立派なひな飾りがあった。古い人形は品のいいお顔立ち。子どもの頃、毎年母が飾ってくれたおひなさまを思い出すなぁ。懐かしく近づいて、ハッとした。ひな飾りって階級社会を模したものなんだとそのとき初めて気づいたのだ。三人官女、五人ばやし、護衛の武士……と緋毛氈の段ごとに身分がきっちり分かれている。最上段のやんごとなきカップルと下段の牛車の世話係なんて、同じ空間にいるのに決して交わらないんだろうなぁ。
さて今回取り上げるのは、森崎和江さんの名作。新版がちくま文庫に入ったと聞いて、いそいそと手に入れた。1927年に日本統治下の朝鮮半島で生まれ育った森崎さんが、子ども時代を丁寧につづっている。幼いときに見聞きした風景や心をよぎった感情を、ここまで詳細に記憶し、ここまでみずみずしく書ける人がいるのか! とまずそこに驚く。
しかし森崎さんは懐かしさに任せてこの本をスイスイ書いたわけではなかった。「私は植民地の日本人であった」という刃を自身に何度も突きつけながら「長いあいだ、日録をつけて来た。私の生誕以来の年月日と重ねあわせて朝鮮の事件、出版物、ことわざ、民謡、生活法などを書い」た。その果てに生まれたのがこの一冊なのだ。「なんにも知らずに好きになってしまった。おわびのしようもない生き方をしていた」の一文が胸に迫る。
この本にひな人形は出てこない。なのに、なぜかわたしは冒頭の発見を思い出した。時々ハッとすることがある。かつて無邪気に愛でていたもの、いや、無邪気に愛でていられた自分自身ののんきな立場に。
(筑摩書房 880円)