「人種差別の習慣」ヘレン・ンゴ著 小手川正二郎、酒井麻依子、野々村伊純訳
「人種差別の習慣」ヘレン・ンゴ著 小手川正二郎、酒井麻依子、野々村伊純訳
ある黒人男性がエレベーターに乗り込む。そこには白人の女性がいて、男性の黒い体を見るとぴくっと体を動かし、自分のハンドバッグをぐいっと引き寄せる──米国の社会学者ジョージ・ヤンシーは、この自らの体験を「エレベーター効果」と名付けた。自意識過剰の被害妄想という見方もあるかもしれないが、著者はこれは明らかに人種差別だという。なぜなら、黒人男性は「暴力的な者、危害を与える者」だと思い込む習慣がこの白人女性にはあって、黒人男性への歴史的なステレオタイプが継承されていること自体が人種差別にほかならないからだ。
著者はオーストラリア在住の中国系ベトナム人にルーツを持つ哲学研究者。本書は、人種差別を身体的な習慣としてとらえ、現象学の観点から人種差別の多様なありさまを明らかにしていくという試み。メルロ・ポンティの身体性の現象学などに依拠しながら「習慣的で身体的なしぐさや知覚のなかの人種差別」に迫っていく手際は見事で、具体的な人種差別の事例も多数紹介されている。
交通事故でケガをした黒人男性が近所の家に助けを求めたところ、家にいた白人女性が侵入者と間違えて警察に通報し、青年は銃殺された。運賃を払わない白人女性に詰め寄ったアジア系のタクシー運転手が殴られてしまう。周囲の見物人は口々に女性が悪いと告げたが、駆けつけた白人警官はそれを無視して女性を無罪放免とした。
そのほか、黒人青年がシカゴのハイドパークを散歩していたところ、多くの白人たちが視線を外し彼に出会わないような行動を取る。そこで青年がビバルディの「四季」を口笛で吹いた途端、緊張が解けていく。つまり高尚な白人文化を知っていることで「暴力沙汰を起こしがちな黒人男性」というステレオタイプが崩されたのだ。
こうした事例を知るだけでも差別を考える一助となるだろう。
〈狸〉
(青土社 3080円)