刀根麻理子が明かす「夏目雅子さんの母親スエさんに泣かれた」
高校卒業後、商事会社に就職。商品の型番をタイプで打つ仕事をしていた。
「ミュージシャンだった父は家庭を顧みない人で、進学する余裕はありませんでした。一人娘としては、一日も早く働いて、母親に楽をさせたかったのです。でも、渋谷にアナウンサー養成学校があるのを雑誌で知り、週に2回ぐらい通うようになった。高校時代は放送部に所属し、NHK主催の朗読コンクールに出場したりしていたんです。もともと芸能人ではなく、アナウンサー志望。学校の先生に紹介されたり、掲示板の張り紙を見たりして、オーディションも受けていました」
食品メーカーのCMオーディションにメーンナレーターのひとりとして合格。そこからは、現場で知り合った人が別の仕事を紹介してくれるという具合に、どんどん幅が広がっていったという。NHKラジオでリポーターもやっていた。
転機が訪れたのは、あるオーディオフェアだった。
「新作の高級スピーカーを使った生ライブの司会の仕事をしたのです。そのときのメーカーの担当者が昔、歌手だった人で、『フリーだと仕事が増えないでしょ。事務所を紹介するよ』と。それが音楽事務所で、デモテープを作るから曲を覚えてこいといわれ、レコーディングスタジオで歌うことに。ナレーターや司会者としてやっていきたかったのに、レコード会社から提示された50万円の給料に目がくらみ、契約書にもサインしてしまって。どうせやるのならちゃんとやりたいと思って『レッスンを受けたい』と申し出たのですが、それもかなわずにデビューしてしまった。だから、人前で歌うことに抵抗があり、テレビも苦手でしたね」