翁長知事が闘ったのはヤマトンチュウからの自由解放運動だ
もうひとりがオレの喉元を睨んで怒鳴る。
「アメ公と約束したんだから普天間に基地は要らんだろ。それならどこだって要らんだろ。代わりに辺野古に押し付けるだけなら何が変わるんや。沖縄人の心と体の負担は何も変わらんわい!」
とさらに迫ってくる。
「だから、翁長知事はこのヤマトンチュウ(日本本土人)政府との半永久的反対闘争を闘う気でいたんだろが。志が果たせないんだから、その遺志を誰もが継がんとアカンちゃうのか!」と、こんなカッコいいアジテーションを昔の若いオレなら、どこかの街角でしかけていたかもしれない。
初めて、デモ隊の端っこに同級生2人で参列したのが16歳。69年「6・15反安保沖縄闘争」の大阪御堂筋デモの夕方の興奮。どんな顔をさらして生きていたころか、写真一枚残っていないが、警察に捕まったらどうしようなんて怯える余裕もなく、青春が高ぶっていた。ベ平連と全共闘のデモ隊が横列で難波の高島屋の下でうねり出すと、機動隊が割り込み、学生が石を投げるわ、機動隊が迫るわ、何人も捕まって拉致された。8ミリで撮りたくなった記憶がある。京大西部講堂前広場の反戦集会、70年「10・28国際反戦デー扇町公園デモ」も覚えている。でも、高校当局はオレたちの隠密行動は何も知らずじまい。知られたら退学させられていた。