父と慕ったジャニー氏死去 TOKIOリーダー城島茂はどうなる
ジャニー氏は入所したばかりの城島をテレビ局回りに帯同させ、「少年隊」や「光GENJI」ら先輩アイドルグループの本番やリハーサル風景を見せながら、「ユーもこういうふうになるんだヨ!」と城島の背中を押したといわれる。
だから城島にとってジャニー氏は“人生の師匠”であり“命の恩人”でもあったようだ。
母子家庭で育った城島から見ると、ジャニー氏は父親みたいな存在で、憧れていた東山は兄貴分として慕っている。
だから山口が事件を起こしたときは、“TOKIOの看板を汚した!”という思いよりは、“ジャニーさんを悲しませた!”という憤りの方が大きかったという。
■TOKIOの原形は「城島茂バンド」
ちなみにTOKIOの原形は、1989年に城島が山口とコンビを組んだ「城島茂バンド」。翌年、これに松岡昌宏(42)、国分太一(44)が合流し、バンド名は「TOKIO」になるが、メジャーデビューは許されなかった。いつか埋没しかねないグループの危機を救ったのが、94年にボーカルとしてグループに加入した長瀬智也(40)の存在だった。城島は長瀬のグループ入りが決まったことに「本当に肩の力が抜けた。これでいける! と確信した」と漏らしたという。実際、そこからTOKIOの輝かしいキャリアはスタートした。