シモキタ・ロフトで「ライブハウスの宿命」が身に染みた
観客動員が悲惨なバンドは、すべからく低姿勢で出演交渉してくる。だが、少しでも売れてくると小さなライブハウスなど見向きもしなくなる。
無名のバンドを大事に大事に育てても<売れたら去っていく>のが常だった。ライブのたびに赤字を出し、それでも我慢を重ねて観客動員を増やし、黒字になったと思った途端、地方から東京に出て行ったり、デカイ箱に吸い取られてしまう。
当時のバンドたちが思い描く夢は「ライブハウスで名前を売って渋谷公会堂を満員にして武道館ライブ!」だった。この出世コースに乗るためには、早くライブハウスから抜け出さないといけない。資本の論理と言ってしまえばそれまでだが……。これもライブハウス残酷物語である。
<下北沢ロフト1975年12月のブッキング>
【4~6日】ティン・パン・アレイ スペシャルプレゼンツ
【7日】あがた森魚
【8日】金子マリ&バックスバニー
【9日】遠藤賢司
【10日】友部正人