優しい山下達郎さんはメンバーの生活苦を気に病んでいた
1960年代後半から70年代初頭にかけてJR中央線の沿線が音楽、演劇、映画などの情報発信基地となった。
70年、吉祥寺に「武蔵野火薬庫 ぐゎらん堂」が生まれ、そこに多くのアーティストが集まり、新しいフォークやロックが入り込んだ。74年にはライブハウス「曼荼羅」が吉祥寺に、その翌年の75年には「じろ吉」(現JIROKICHI)が高円寺にオープン。ロックの新時代が目の前まで迫って来ていた。第1次ライブハウスブームの足音が、ヒタヒタと聞こえてくるようだった。
76年の3月31日に「荻窪ロフト」(74―80年)で“あの”山下達郎率いるシュガー・ベイブが解散ライブを行った。荻窪ロフト、下北沢ロフト(75―80年)の常連だったシュガー・ベイブといえば山下達郎に大貫妙子も在籍していた幻のスーパーバンドである。不朽の名盤「SONGS」は、Jポップの元祖といわれている。
解散理由は、いろいろな臆測が飛び交ったものだが、あくまで「経済的な問題」という。バンドリーダーの達郎さんは、それ以外のことを一切言わなかった。彼は、とても優しい人なのでバンドメンバーが生活に苦労しているのでは、と気に病んでいたことを私も知っていた。そう、当時ライブハウスで演奏していたミュージシャンたちは、生活苦という絶望的状況にあえいでいたのである。