<10>歌は水物です…「そんな夕子にほれました」はヒットすると思っていなかった
子供の頃は力士より歌手になりたいと思っていたことは前にお話ししました。先代増位山の親父も歌が好きだったことと力士から演芸評論家になった小島貞二さんに勧められたのがキッカケで「いろは恋唄」(1972年)を出しました。
「いろは恋唄」は作詞が小島さん、作曲が山路進一さんでした。レコーディングの時のことは今でも覚えていますね。場所は赤坂のホテルニューオータニの裏通りのスタジオです。レコーディングが始まって、スタジオでマイクを通して初めて自分の声を聴いて「これが俺の声なの?」と変な気がして、驚きました。今でこそ普通に自分の声を聴けるけど、当時はマイクを通した声を聴く機会はなかった。自分の声がわからず、まったく素人と同じでした。
レコードを出すようになってから「いい声だ」と褒められたりしたけど、僕自身はそう思ったことはなかったですね。
レコーディングも面食らいました。当たり前だけど、素人だからどうやるのかまったくわかっていなかった。その頃はバンドが生演奏して同時録音するやり方から、録音したのを切ってつなぐ方法に変わったばかりでした。でも、それらもすべてが初めてのこと。当時は切ってつなぐのが結構大変で2日がかりになりました。
契約もいい加減でしたね。「いろは恋唄」はキャニオンレコードの当時の社長もやってきたのに契約をしないの。何枚売れたかもわからない。歌唱印税もなかった。B面は「でっかくいこうぜ」という曲で、部屋の若い衆のヨイショ、ヨイショという掛け声が入っていてね。全部、身内で作っちゃったようなものでした。
2枚目の「両国エレジー」(73年)は呼び出しの三郎に「関取、レコード出しましょうよ」と誘われ、CBSソニーから出しました。ギターの伴奏だけの軍歌を力士の替え歌にした曲でした。この時は5万円もらったのかな。今なら20万円か30万円だと思います。
困ったのは、結婚式では歌えなかったこと
最初のヒットになった3枚目の「そんな夕子にほれました」(74年)は故・初代林家三平宅でお世話になっていた小島さんが女将さんの海老名香葉子さんにお願いして詞を書いてもらった曲です。「夕子」はお手伝いさんの名前です。前の2曲ともまったく売れなかったし、それがまさかあんなにヒットするとは思わなかった。世の中、何が本当に起きるかわからないものです。
この時に思ったのは曲が売れるか売れないかはまったくわからないということ。歌は水物です。後からは何とでも言えるけれども。一人ぼっちの女、ナイトクラブの女……暗い過去を持つ女を「夕子」という名前にして素直に歌ったことが時勢というか、時代に合っていたということなんでしょうね。
困ったのは「そんな夕子」は結婚式では歌えなかったことです。暗い過去をずっと歌っているので、お祝いの席にはそぐわない(笑い)。
発売されて毎日1万枚、2万枚が売れました。ラジオや有線も鳴りっぱなしです。当時はヒットすると、レコードジャケットが欲しくて記念に買う人もいました。今でいうジャケ買いです。それを宝物みたいにして持っている人も多かった時代です。CDが売れない今とは大違いです。
そして、3年後に出した「そんな女のひとりごと」が130万枚のヒットになりました。=つづく