「コーダ あいのうた」は映画館のスクリーンで見るべき作品だ
映画やドラマなどを見たあとの反応として、「号泣する」という言葉をときどき目にする。本当に「号泣」なのかと思ってしまうが、ある映画を見て、まごうことなき「号泣」体験をした。1月21日から公開された「コーダ あいのうた」(米=仏=加合作)だ。
後半に入り、ある連続的なシーンが続く。そのあたりから涙がどっと溢れ始め、鼻水もかつてないような勢いでしたたり落ちてきた。マスクの中が、ぐちゃぐちゃになってしまった。嗚咽の声を上げ出す寸前までいった。
「コーダ あいのうた」は、耳の聞こえない両親に育てられた少女(ルビー)を中心に話が進んでいく。ルビーには兄もいるが、彼女だけが健聴者だ。米国のある港町が舞台。母以外、3人は漁に出て働く(健聴者のルビーの役割が大きい)。家族は獲った魚を業者に安く買いたたかれる日々だが、ルビーには一つの転機が訪れる。高校の合唱クラブに入ったことをきっかけに、彼女の歩みに大きな変化が起きていくのだ。引っ込み思案な彼女は人前で歌うのは苦手だが、その歌声には天性の伸びやかさ、きらめきがある。
■エミリア・ジョーンズ圧巻の演技
主人公はもちろん、歌の才能に次第に磨きがかかっていくルビー(子役から活躍しているエミリア・ジョーンズが扮する)だが、本作は家族を含めた彼女の周りの人たちの姿、個性が圧巻なのである。皆、強烈なエネルギーをもって生きている。その一人が、ルビーに歌の本質を教えていく合唱クラブの先生だ。偏屈なところもある男だが、指導者として抜群の才をもつ。有名ミュージシャンの言葉を引用しながら、歌の本質をとらえた名言を吐くシーンがある。ルビーの表情が変わる。本気になる。先生の指導力の熱量ぶりが凄まじい。
加えて、父と母、兄が見せる手話の強烈なアクティビティーといったらない。手話は千変万化する表情と一体化する。その一体化から、生のエネルギーがほとばしる。とくに、父が折々に繰り出すセックスに関する手話が強烈だ。セックスには、ことの本質がある。人間の本質がある。父はそれをあからさまに出す。年頃のルビーは当然嫌がり、大迷惑も被るが、さまざまな局面で現れる手話の苛烈なアクティビティーこそ、本作の大きな魅力だといえる。
周りの人たちの強烈なエネルギーが画面に飛び交いながら、映画は冒頭で記した「号泣」部分に進んでいく。手話を介してルビーと母、ルビーと兄が、本音でわたり合うところだ。前者では母が吐露する驚くような中身、後者では兄が妹ルビーに対して、ある思いを爆発させる。それぞれ、家族の原点そのもの、これから避けて通れない人生=生活の根幹部分に及ぶ。
ここでは、さきの手話と表情、肉体の一体化、ルビーの実直極まる向き合い方が、映画の沸騰点のような煮詰まり方をしたといっていい。詳しく「号泣」の中身に触れられないのが悔しいが、そのさらにあと、クライマックス部分では「号泣」の揺り戻しのような場面が待っているのだ。
劇場公開に踏み切ったギャガ
スクリーンで見るべき作品である。とくに、ルビーの歌唱をめぐる2つのシチュエーションが重なるクライマックスは、スクリーンで見てこそ、その感慨、感動、驚きが幾重にも膨れ上がる。
本作は、米国のサンダンス映画祭(2021年)で最高賞の受賞を果たした後、大手の配信動画サービス会社が全世界的なオールライツの権利を得た。日本ではそれ以前に、ギャガが国内の劇場での上映権利を得ていたが、配信大手から権利引き取りの打診があったという。
だがそこを振り切って、ギャガは劇場公開に踏み切った。本当に感謝以外ない。試写段階から、興行側の作品への関心も非常に高く、スタート時、全国で200スクリーン規模での上映が決まった経緯も加えたい。
映画を映画館で上映すること。映画館で映画を見ること。「コーダ あいのうた」は、そのことの大切さ、かけがいのなさも改めて伝えた作品であると思う。「号泣」は奥が深い。