69歳で仕事も夜も現役バリバリ…清水国明さんの若さの秘訣
人生ブランコ いつもリスクテーカー
――将来は何になろうと思っていたのですか。
サラリーマンにはならないやつと思われていて、まあそうなんだろうなと。大学では海外の貨物船に乗るアルバイトをして、ソ連に行ったりしてました。そして京都の旅館の住み込みで(笑福亭)鶴瓶、原田(伸郎)らと出会い、できたのが「あのねのね」。「赤とんぼの唄」は船上でニーチェを読んでいるときに思いついた輪廻転生の歌です。時給170円の時代に河原町のビル屋上のビアガーデンで歌うと、30分公演を2回やって3000円もらえた。これを2人には2000円もらえると嘘ついて壇上にあがったのが、今に続きます。ギャラはその後、原田たちにバレて、いまだに恨まれてます。
――窮地やどん底もありましたか。
もちろん。鈴鹿の8耐に挑戦すると宣言して10年、バイク免許取得からはじめ、やっと初参戦した決勝前日に転倒し鎖骨を骨折してしまったのは痛恨の思い出です。リタイアするのは仲間やファンに申し訳ない。でも動くに動けない。絶望に喘いでいたら、何度もお世話になっていた整形外科の先生が「普通はやらないけど」と言いながら、プレートを体に入れて、ボルトで患部を固定する手術をしてくれたんです。麻酔でブレーキを握ってるかどうかすらわからない状況でしたけど、それで何とか出場でき、173周を完走と認定される制限時間まで1000分の2秒というギリギリでチェッカーフラッグの下を走り抜けることができました。最悪の状況でも、諦めなければたった一夜にして最高にもなるんだと身をもって知りました。
――それが信条に?
人生ブランコやと思うんです。振れ幅が大きければ大きいほど、揺り戻しも大きい。うまくいかないと落ち込んだり、悪い流れを止めようとしがちですけど、いくところまでいっちゃえば、それと同じくらいの幸せがくる。だから見るまえに跳べ、いつもリスクテーカーです。僕の姉はパートから会社社長になり、それを退いた今は名古屋でレストランの皿洗いをして「いらっしゃいませ」って大声を出している。僕もそのくらいフットワークを軽くして、いろんな顔を持って、ひとつ駄目になったら終わりとは考えない。おかげさまで毎日ワクワクですよ。
――どのように人生を全うしたいと思いますか。
僕はね、先祖が毎日空の上から子孫を見ていると思っているんです。よく頑張っているから助けてあげようとか、先祖会議している。たまにズコーンとパワーが降りてくる気がしますからね。その先祖たちが一番喜ぶことは何か。子孫を多くつくることですよ。人生を全うして、先祖に会ったら、こう言われたいですね。「ようセックスやってくれたなあ」って。
(聞き手=長昭彦/日刊ゲンダイ)
▽しみず・くにあき 1950年10月15日、福井県生まれ。京産大法学部卒。タレントのほか、富士山のふもとの自然体験施設「森と湖の楽園」、瀬戸内海の無人島での「ありが島」プロジェクト、東京都立川市で人工砂浜「タチヒビーチ」などを運営。会社5つを切り盛りする実業家。企業の社員研修、異業種交流の「国明会」、ビジネスマンらのアイデアを聞きバックアップするプロジェクトなども行い、「子どもたち世代のために」と、水の電気分解で水素を燃やすことでエネルギー源にする脱原発、脱化石燃料に力を注ぐ。