安久工機 田中隆社長(1)「世界トップレベルのベンチャー7社」に選ばれた町工場
「親父は亡くなる方が多い病棟に入れられました。それくらい、炭鉱の事故で命を落とすケースがあとを絶たなかったのです。回診に来た医師に『君、まだ生きていたんか』と言われたそうです」
幸いにも、しばらくして無事、退院することができた。まだ十分に回復したわけではなかったが、会社から支払われた見舞金を手に、文夫氏は上京した。昼間はアルバイトをしながら、大学の夜間部に通った。だが、完治していない体に二足のわらじはきつかった。
3年の時、大学をやめ、仕事に専念するようになった。いくつかの会社を経て、大田区下丸子の東洋精器という町工場に就職した。その前後に、長男の隆氏も生まれている。
「そこで親父は加工、試作、設計などの技術全般を身につけたんです」
■50年前から“医工連携”を実践
独立して安久工機を立ち上げたのは69年。ちょうどその頃、早稲田大と東京女子医大で人工心臓装置の開発プロジェクトが始まっていた。