本田圭佑「虚像と実像」(7)“オレ様”スタイルに磨きをかける
■中学生ですでに「世界」を意識
G大阪の育成普及部長として本田の指導にも当たっていた上野山信行(現チームアカデミー本部・強化本部担当顧問)は「今思えばですが……」と前置きしながら、当時の本田の心境をこう推測する。
「プロに行きたいという夢は持っていた。ジュニアユースからユースに昇格し、トップとプロ契約を結ぶ。そのためにチームが要求することに必死に応える。これが一般的ですが、圭佑はそうではなかった。もっと走れという指示を聞かなかった。もしかしたら中学生の時点で《ボールを正確に蹴る》《良質のパスを出す》ことをアピール、世界を見据えていたのかも知れません」
ガンバ大阪には「個人のプレースタイルを最大限に尊重する」という伝統的な土壌もあった。本田はジュニアユースから落ちこぼれずには済んだ。
「G大阪以外の道からJリーグに行き、そこから世界を目指す。こんなプランニングを当時から練っていたからこそ、世界に飛び出して名門ACミランに入ることが出来たんじゃないかと思います」(上野山)
もっとも、ジュニアユースのチームメートにとって、本田はかなり「ウザイ」存在だった。ヘタクソなのに自己主張の塊。まるで「腫れ物に触る」ように扱われた。
(敬称略=つづく)