「早く所属先を決めるべき」 元代表主将が“浪人”川島に苦言
実は私は、「所属クラブなし」の経験者である。
84年3月、その月限りで三菱自動車を退職。翌4月から秋田経法大付属高(現・明桜高)サッカー部監督を務めることになっていた。当時、日本代表に選ばれるには「所属先」が必要とされた。
退職と同時に三菱サッカー部を辞めることになるので、4月から日本代表との縁も切れるはずだった。64年東京、68年メキシコ五輪の代表監督で日本サッカー協会の長沼健・専務理事(当時、94~98年に会長)から連絡が入った。「4月15日からロス五輪アジア最終予選(~26日)がシンガポールで行われる。それまで代表GKとしてプレーしてほしい」。サッカー界の大先輩の頼みだ。もちろん二つ返事である。
所属先の問題をどうするか? 中大OBの長沼さんは、秋田県庁サッカー部の監督を務めていた中大サッカー部の後輩に「登録選手にしてくれないか」と要請した。
秋田県庁サッカー部は「秋田市リーグ」に所属していた。当時のカテゴリーでは日本リーグの1部、2部、地域リーグ、都道府県リーグで、その下の市リーグは実質的に「5部」といっていい。