高校球児の気持ちを尊重するのはプレーヤーズファーストか
■「格闘技のケースと同じ」
遅くなったが、ただいま盛況の高校野球を見るにつけ、私の脳裏にこの記憶が思い出される。ご存じ、炎暑による熱中症問題、選手の酷使問題など、昨今の高校野球には医学的な見地に立てば危険な要素が多くあり、甲子園の代替球場案など活発な議論を呼んでいる。
そういう中で、いつも一定の支持を集めているのが「選手の気持ちを優先すべき」という意見だが、これは先述の格闘技のケースと同じで非常に危ういのではないか。甲子園じゃないと意味がない、甲子園で倒れるなら本望だ。よく考えてみたら、選手がそういう興奮状態に陥るのは当然のことであり、だからこそ大衆の心を打つプレーができるのだろうが、その興奮時に人間の一生を左右するような判断も委ねるのであれば、周囲の大人はなんのために存在するのか。未熟さゆえに命を賭して猛進する高校生の姿は確かに美しいかもしれないが、それは危険と隣り合わせの残酷な儚さをはらんでいるからだ。
高校野球問題はこれで最後にするが、とにかく選手にはブレーキが必要なのだ。選手の気持ちを尊重することだけがプレーヤーズファーストではない。時にはそれを無視してまでシビアに選手を止めるブレーキ。高野連は、たとえば医師を要職に招いたらどうだろう。