セクハラ報道に株で逮捕…地に落ちた「3冠監督」のその後
山田は、74年世界選手権と77年ワールド杯でも優勝。“3冠監督”となり、84年のロスオリンピックでは銅メダルを獲得した。
一方、日立監督としても日本リーグで18度も日本一となった。ただし、当時の山田は、私に語っている。
「大企業の日立は、何百億円もの宣伝費を動かしている。いくら女子バレーがテレビで放映されてメディアが取り上げても、か弱き腕には期待していないんだな。『君たちはバレーという特技を持っているんだから、目いっぱい青春を謳歌しなさい』って感じ。私が日立本社で重役に会えるのは年に1回。それも優勝し、挨拶に行くときだけだね」
88年ソウルオリンピック(4位)後に山田は代表監督を辞任し、日立に戻った。90年代に入るとサッカーのプロ化(93年)に触発され、日本バレーボール協会常務理事でもある山田は、日本リーグ加盟チームもプロ化すべきだと奔走。メディアを通じて強く主張した。
だが、協会も親会社の日立も他チームもプロ化に大反対。私が山田を取材したときは監視役として協会職員が同席した。