著者のコラム一覧
山中正竹ソウル五輪コーチ/バルセロナ五輪監督

1947年4月24日、大分県生まれ。佐伯鶴城高、法政大、住友金属工業で投手としてプレー。東京六大学最多勝利記録保持者(48勝)。住友金属で監督を務めた後、88年ソウル五輪コーチで銀メダル、92年バルセロナ五輪監督で銅メダルを獲得。法政大監督、横浜ベイスターズ専務などを歴任し、2016年野球殿堂入り。17年から侍ジャパン強化委員会強化本部長を務め、18年に全日本野球協会会長に就任。169センチ、64キロ。左投げ左打ち。

早大・仁志敏久だけはバルセロナ五輪に連れて行きたかった

公開日: 更新日:

 1992年バルセロナ五輪のメンバーは、大学生、社会人のアマ選手のみで構成された。プロが加わるのは2000年のシドニー五輪から。89年からの4年間、何百人というアマ選手の中から、数十回の合宿、海外遠征を経て、最終的に20人に絞る。ギリギリのところで外れた選手たちも、実力は紙一重だった。

 そんな中で、私がどうしてもバルセロナへ連れて行きたかった大学生がいた。メンバー入りした小久保裕紀(青学大→ダイエー)と同級生だった仁志敏久(早大→日本生命→巨人)である。

 当時、遊撃手だった仁志は、日本オリンピック委員会(JOC)の強化指定選手に選ばれるほど、能力が高く評価されていた。バルセロナだけに限らず、将来の日本代表をリードしていく立場にある選手だと思っていた。合宿や遠征時のミーティングでは、小久保とともに一番前に座り、一言も聞き漏らさない、といった感じで熱心にメモを取っていた。

 しかし、最終的に仁志は代表入りしなかった。というよりもむしろ、仁志を入れることができなかった。


 当時のアマチュア野球界の組織の問題が少なからず影響した。五輪の公開競技だった野球は86年に、6年後のバルセロナ五輪から正式競技になることが決定した。これによってJOCに所属することになり、90年に日本代表を編成するための組織として、今の私が所属する「全日本野球協会」の前身である「全日本アマチュア野球連盟」が発足。学生野球、社会人野球のアマチュア野球組織を代表する形でJOCに加盟した。

■関連キーワード

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    ロッテ佐々木朗希は母親と一緒に「米国に行かせろ」の一点張り…繰り広げられる泥沼交渉劇

  2. 2

    米挑戦表明の日本ハム上沢直之がやらかした「痛恨過ぎる悪手」…メジャースカウトが指摘

  3. 3

    陰で糸引く「黒幕」に佐々木朗希が壊される…育成段階でのメジャー挑戦が招く破滅的結末

  4. 4

    9000人をリストラする日産自動車を“買収”するのは三菱商事か、ホンダなのか?

  5. 5

    巨人「FA3人取り」の痛すぎる人的代償…小林誠司はプロテクト漏れ濃厚、秋広優人は当落線上か

  1. 6

    斎藤元彦氏がまさかの“出戻り”知事復帰…兵庫県職員は「さらなるモンスター化」に戦々恐々

  2. 7

    「結婚願望」語りは予防線?それとも…Snow Man目黒蓮ファンがざわつく「犬」と「1年後」

  3. 8

    石破首相「集合写真」欠席に続き会議でも非礼…スマホいじり、座ったまま他国首脳と挨拶…《相手もカチンとくるで》とSNS

  4. 9

    W杯本番で「背番号10」を着ける森保J戦士は誰?久保建英、堂安律、南野拓実らで競争激化必至

  5. 10

    家族も困惑…阪神ドラ1大山悠輔を襲った“金本血縁”騒動