「このままのメンバーで…」主将高見が訴えたチームの総意
1992年バルセロナ五輪を1カ月後に控えた6月下旬、北海道・旭川合宿で、私は一つの決断を下そうとした。
八回、九回を任せるストッパーとして期待をしていた右腕の西山一宇(NTT四国→巨人)をメンバーから外すことだった。
五輪前年の91年アジア地区予選で圧倒的な存在感を見せた西山が、92年に入って調子を落としていた。
病院で右肘を検査し、異常は見つからないというのだが、明らかに状態は思わしくなかった。
私は、直前の旭川合宿でのオール北海道との壮行試合の投球で最終判断をしようと考えた。代表選手の最終エントリーを提出する上で、ギリギリのタイミングがそこだった。
西山は試合で2イニングを投げたものの、本調子には遠かった。
合宿最終日、私は他の投手を招集することを決断した。
西山に伝えるべく、マネジャーの廣瀬寛(トヨタ自動車)を通じてその日の夜に自分の部屋へ来るように伝えた。