ヤンチャくれだった右腕・西山一宇をミーティングで叱責
「この1年間で球速5キロアップに取り組もう」
1990年2月のグアムキャンプで、私は投手たちにこう呼びかけた。
野茂英雄(新日鉄堺→近鉄)、潮崎哲也(松下電器→西武)ら優秀な投手が前年のドラフトでプロ入りした。
2年後に迎えるバルセロナ五輪本番に向け、それくらいの目標を持っておかなければ、世界の強豪とは渡り合えないと考えていた。
「5キロ上げるにはどうしたらいいですか?」
メンバーの中で率先して質問してきたひとりが、当時社会人1年目の19歳、後にバルセロナ五輪のメンバーとなる右腕の西山一宇(NTT四国→巨人)だった。
「体を強くし、正しいフォームで投げること。そして、球速を上げようという意識、意欲を持ち、継続して取り組む。この3つの要素がなければ、達成はできない。フォームについては私が指導をし、体づくりについては、代表の谷川哲也トレーナーがメニューを作成する。あとは君がどう取り組むかだ」
高知高時代にロッテから5位指名されたように、実力は折り紙つき。力のあるストレートと鋭く落ちるフォークに目を見張るものがあった。バルセロナでは中心的な存在になると期待し、同年9月のアジア競技大会(中国・北京=日中韓台の4カ国が参加)で代表に招集した。代表メンバーでは最年少だった。