早大・仁志敏久だけはバルセロナ五輪に連れて行きたかった
その一方で、大学野球と社会人野球はそれぞれ、独立した連盟組織としての長い歴史を歩み、それぞれの組織に理念や文化がある。たとえば大学(高校も含む)には「学生野球憲章」があり、学生野球はあくまで教育の一環で、野球が学業を妨げてはならないとされている。五輪へ参加するためには、直前のイタリアでのコロンブス大会への参加を含め、約1カ月間の長期遠征となり、当然、学業にも支障をきたすことになる。
■「あの時は本当に悔しかった」
そんな事情を考慮した上で、私は小久保が在籍する青学大、仁志が在籍する早大へ足を運び、野球部の指導者へ派遣のお願いをした。
しかし、仁志については長期間、学業から離れることから、派遣は難しい、という回答だった。その4年後の96年アトランタ五輪では投手の三沢興一(早大→巨人)が早大から代表入りしているが、仁志がいた当時は、実現には至らなかった。
92年3月、神宮球場で行われたプロアマ交歓試合に出場後、私は仁志に代表から外れる旨を伝えた。本当の理由を告げるわけにはいかず、20人の最終メンバーを選ぶにあたり、野球の技術面の課題をその理由とした。なぜ僕がといわんばかりの、とても悔しそうな仁志の表情が今でも忘れられない。