結婚式の仲人を稲尾和久さんが紹介してくれた顛末
1984年から86年までの3年間、ロッテの監督を務めた稲尾和久さんは、西鉄での現役時代に鉄腕と呼ばれ、「神様、仏様、稲尾様」と称された大選手だ。
当時のロッテは、かつて西鉄が本拠地としていた福岡・平和台への移転を検討していた。その先鞭をつけるべく、稲尾監督が誕生したと聞いた。
稲尾さんは辛抱強く試合で使ってくれた。当時は二塁守備での失策だけでなく、走塁でも盗塁死が少なくなかった。私のプレーが原因で試合に負けたこともある。コーチから怒られることはあっても、稲尾さんには一度も怒られた記憶がない。
むしろ「次は頑張れ」と、背中を押してくれるような監督だった。私自身、両打ちの習得を含め、必死で練習、試合に取り組んでいた自負があった。稲尾さんも、そういう私の姿を見てくれていたのだと思う。
84年は、落合博満さんが一塁へコンバートされたことで空いた二塁での出場機会が増えた。翌85年に打率3割をマークし、ベストナインとダイヤモンドグラブ賞(当時)を獲得。86年に初めて盗塁王のタイトルを獲得することができたのも、稲尾さんの後押しがあったからこそだ。