1日に1000以上のスイングで指が固まり手が開かなくなった
1982年秋。
プロ1年目を終えたばかりの私は、川崎球場での秋季練習の初日、当時の監督だった山本一義さんに呼ばれ、「スイッチヒッターをやってみるか」と声をかけられた。
右打者としてプロ入りした私はその年、オープン戦途中まで一軍に帯同したが、その後は二軍暮らし。シーズン終盤に一軍へ昇格することができたものの、出場は6試合にとどまった。守備、代走での出番しかなく、打席には一度も立つことができなかった。
後々、聞いた話では、当時のレギュラーは左打者が少なく、山本さんは左打者を打線に置きたかったという。何人か候補がいる中で、私の武器である足が買われたようだ。
私は小学校のときに野球を始めてから、一度も左で打ったことがなかったが、「はい」としか言えない雰囲気があった。
「わかりました。やらせてください」
「よし。このオフでモノにしろ。今日から早速、練習だ」
オフの短期間で習得できるか不安だったが、とにかくやるしかなかった。