滝川高時代に「昭和の怪物」作新学院・江川卓の球を2球ファウルしただけで新聞に載った
翌朝、地元の新聞に「江川にカーブを投げさせた男」と私が紹介された。2本ファウルを打っただけで三振だったのに、うれしいやら恥ずかしいやら……。江川は直後のセンバツで準決勝まで進み、4試合で60奪三振の最多記録を打ち立て、江川フィーバーが始まった。
私の野球人生で江川より速い投手は見たが、うなりながら浮き上がるような球質で、江川以上の投手はいなかった。ベルトの高さかなと思ったボールが、3、4個分は上の胸や首付近の高さだったということもあった。その後、江川とは大学やプロで対戦したが、高校時代が一番すごかったと思う。この時のイメージがあまりにも強く、プロ2年目に対戦した時は、それほど速く感じなかったほどだ。
ところで、私はなぜ滝川に進学したのか。話はさらに中学3年時にさかのぼる。
兵庫県加西市では、ある程度、名の通った中学生だった。そんな私の自宅に、東洋大姫路の監督と部長が5度ほど訪れ、熱心に入学を勧められた。私は成績も良かったため、野球学校ではなく、勉強もできる学校に進学したかった。私は体が小さいこともあり、もしケガなどで野球を断念することになったら、勉強で大学に行きたかった。東洋大姫路は丁重にお断りし、自宅から少し離れているが、元巨人の淡口憲治さんが通った三田学園を志望した。当時の日下隆監督に「三田学園に行きたいんですけど」と売り込むと、こう言い返されたのだ。
「いや、オレはちょうど今年で終わっちゃうんだよ(後に育英監督)。滝川の吉本宗泰さん(監督)を紹介するよ」