三笘薫“ヌルヌル”ドリブルの原点は「4年間続けた1対1の自主練習」 筑波大の恩師が明かす
10日に行われたキリン杯で日本代表が4-1でガーナに大勝した。1ゴール、1アシストと躍動したのは、森保一監督に「切り札」と期待されるMF三笘薫(25=サンジロワーズ)だ。カタールW杯出場を決めたアジア最終予選のオーストラリア戦で、途中出場ながら2発を叩き込み、日本の救世主となった。
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11月の本大会では優勝経験のあるスペイン、ドイツと同居する「死のE組」に入る。左サイドを抜ける三笘の「ヌルヌルドリブル」は日本の大きな武器。筑波大の恩師・小井土正亮監督(44)が原点を明かした。
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──高校まで川崎の下部組織出身のエリート。ユースからトップチーム昇格の打診を受けながら、プロにならず、筑波大へ進学した。
「うちはスカウトがいるわけではありません。(川崎)フロンターレの指導者の方から『うちの選手がチャレンジしたい。筑波大学への進学を希望している』という問い合わせがあって、三笘が高校3年の5月か6月か、ちょうど今頃は、プロに上がるか上がらないかを決める時期なので、大学の練習に来てもらったのが最初です」
──その時の印象は?
「ドリブルの独特のタッチは当時も健在で、うまいなと。相手の逆を取ったり、かわしたりするのは天賦の才があるなと感じました。光るところがあった半面、まだ体の線が細く、うまい選手というだけで、速さや怖さはあまり感じませんでした」
──数多い強豪大学の中でなぜ筑波大を?
「しっかりスポーツ、サッカーの勉強をしたいという目的があったと聞いています。うちは私立ではない(国立)ので、サッカーの実力だけで合格にはなりません。進学がかなわなかった時に何を考えていたかは聞いていませんが……」
──Jリーグのユースから大学進学というケースはあまり聞きません。
「そうですね。フロンターレユースの1学年上に板倉滉選手(現シャルケ)や三好康児選手(現アントワープ)がいて、上(川崎F)に上がっても1年目から活躍できていなかった。あれだけ凄い先輩が、というのがあって、筑波大で鍛え直したいと思ったようです」
──筑波大では順調に結果を出したのですか?
「決して順風満帆ではありませんでした。4年間、敵なし、無双状態という感じではなくて、持っているポテンシャルからすれば、もっと結果が出せるはずなのにと、もがいていた。こちらも歯がゆい4年間だった気がします」
──大学2年時の天皇杯2回戦の仙台戦で、開始早々に60メートルをドリブルで独走した伝説のゴールがある。
「あの時はまだ絶対的なレギュラーで出ていたわけではなかった。それまでサブに甘んじていて、あの試合はスタメン。『やってやるぞ』という思いが詰まったゴールでした」
──性格は?
「周りを鼓舞するようなタイプではないけど、闘志を内に秘めるタイプで負けず嫌いでしたね」
飲み会に参加しない「ストイックな食生活」
──というと?
「感情の浮き沈みがあっても表には出さず、練習にぶつけていました。全体練習では個人にフォーカスした、彼のための練習は一度も行っていない。三笘は課題だと思っていた1対1の自主練習を同級生と4年間、休まずに続けました。目の前の試合のためというより、この先プロでどうやって勝負していくのかと思い描いた中でやっていました。全体練習に響くから、そろそろやめてくれよと思うほどで、私は見守っていただけ。あのドリブルも4年間で磨いたところはあると思います。ただ、大学生だといい状態で三笘にボールを回せない。花開いたのはフロンターレに入ってからですね」
──現在の「ヌルヌルドリブル」はいつ開発?
「うちは勝つために個人の武器を最大限発揮しながら戦うという方針でしたから、三笘のドリブルが最大の武器だったのは確かです。ただ、もう少し早くボールを離してくれれば、周囲がサポートできたのにとか、チームとしてのテンポを考えると、持ち過ぎという場面も多かった。あの頃は1人でなんとかしてくれるというほどではありませんでしたから」
──大学時代に体重を5キロ増やした。
「うちは寮がないので下宿でしたけど、食事には気を配っていたようです。聞いた話では、飲み会にも参加しなかったようですし、ストイックでしたね」
──大学時代に大きなケガは?
「体のケアはしっかりしていました。大きなケガはありませんでしたが、相手との接触が多かったので、捻挫が多かったと記憶しています」
──小井土監督は大学で「サッカーコーチング論」というゼミを担当している。
「サッカーは一生懸命やるけど、勉強は卒業できればいいという学生もいなくはないですが、三笘からは、興味を持って学び続ける意思を感じました。優秀な学生でしたよ」
──三笘の卒論のテーマは?
「自分のドリブルは他の人とどう違うのか、という疑問から『ドリブル時の視覚情報の違い』です。自分がドリブルをしている時と、人が見ている世界はどう違うのか。GoPro(小型カメラ)を頭につけて映っている映像を見ながら、自分と他の人はどう違うかを分析していました。どちらかというとドリブルができる三笘より、できない人にとってタメになる論文だと思います」
──成績は良かった?
「教育実習は代表の大会と重なってしまったので、行けませんでしたが、教員免許の単位も取っていました。天才肌の選手で直感的にプレーしているイメージがあるかもしれませんが、サッカーの理解度が高い。指導を実践する授業があるのですが、論理的に考えられるし、しっかり言葉で伝えられる。三笘はいい指導者になる資質があります」
大学時代に足りなかったのは「勝負強さ」
──W杯出場を決めたオーストラリア戦で2ゴール。日本代表では「勝負強い男」で通っている。
「大学の時は勝負強くはなかったですね。むしろ、そこが足りないというか(笑)。いい選手だし、うまいけど、勝たせられるか、点を取れるかというと物足りない。本人もそれは強く自覚していたと思います。『チームを勝たせる選手にならないと、プロでは生きていけないし、そこが足りないと思うぞ』と言ったことがあります。フロンターレから海外のクラブに入って、日本代表に呼んでもらって、徐々に自信をつけていった。もう少し早く東京五輪で勝負強さを出せたら違ったんだろうなとは思いますけど、順調に成長してくれていると思います」
──大学の時から天才ではなかった。
「努力の人で貪欲に高めている最中。まだ天井が見えていない。まだまだノビシロがあります。ブラジル戦で完封されましたから、さらに上を目指して欲しいですよね」
──ブラジル戦は不完全燃焼だった。
「完全燃焼したけど通用しなかったというのが正しいでしょう。W杯に向けていい経験になったと思うし、ワクワクしていると思います」
(聞き手=増田和史/日刊ゲンダイ)
▽小井土正亮(こいど・まさあき) 1978年4月9日、岐阜県岐阜市出身。各務原高から筑波大。卒業後は筑波大大学院に通いながらJ2水戸でプレー。現役を1年で引退し、2002年の大学院修士2年次から筑波大蹴球部のヘッドコーチに就任。大学院修了後は04年に柏のテクニカルスタッフ、05年から10年まで清水、13年にはG大阪でアシスタントコーチを歴任。14年から筑波大体育系助教となり、蹴球部ヘッドコーチを経て、同年途中から監督に就任した。