ジャイアンツのキャプラー監督は国歌斉唱拒否 選手や指導者が社会問題に関わることの是非
講義の途中でも質問をするし、発言を求めると手を挙げ、話が終わればすぐに議論が始まる。米国の大学での授業や国際会議での発表などでは見慣れた光景だ。
さまざまな意見の中には目を見張る内容があり、理解の水準の高さを感じさせる一方で、直前に話した内容を繰り返すだけの者や議論の趣旨にそぐわない話をする者もいる。
それでも質問を促してもうつむいたままであったり、感想と質問とが入り交じり趣旨が不明確な発言に比べれば、日米の大学や学会という限られた範囲の中でも少なからぬ差のあることが分かる。
これは、一面において「発言しなければ欠席と同じ」という考えの影響でもあろう。また、他面では相手の意見を聞き、自分で問題点を考え、伝えることを小学生の頃から実地で体験する米国と、「質問は分からないことを聞くもの」と考えがちな日本との違いと言えるかもしれない。
それとともに、報道機関が共和党と民主党のいずれを支持するかを明確に示し、それによって読者や視聴者が発信される情報の質を判断できることは、特定の勢力や主義に偏らない「不偏不党」を標榜する報道よりも信頼できると考える米国社会の特徴も見逃せない。