「降格の規則ができていたら楽に取れた」双葉山が明かした“背水の重圧”
不世出の名横綱・双葉山は、時代とともに神格化されてきた感があるが、実は人間味のある逸話が多く残っている。
終戦直後、新興宗教にのめり込み、教団本部で教祖を守ろうと警官と大乱闘になって拘束された「璽光尊事件」の後には、「自分には学問がなかった」と我に返った。
師匠・立浪親方(元小結緑嶌)との不仲や、ビールは1本で顔が赤くなるのにウイスキーは1本ぐらい軽く空けたという不思議な話もある。
引退後に時津風親方となり、相撲協会理事になってからも、正直な胸の内を明かしている。1950年、横綱が2場所続けて負け越すか休場するかした場合に降格させる改革案を、協会が発表した時だ。
「不調の場合、大関に下げてもらえるなら、この規則が10年早くできていたら、私ももっと楽な気持ちで相撲が取れた」
前年秋場所後に横綱前田山が不祥事で引退し、直後の50年春場所で羽黒山、東富士、照国の3横綱が全員途中休場して横綱批判が高まったため、まとめた降格案だった。
「相撲界で横綱は絶対権を持ってきた。その横綱であった自分がこの規則を決める一員であるのは誠に申し訳ない」と、心苦しさも語ったという。
現役の照国まで「ありがたい。楽に取れる。大関からやり直す」と歓迎したそうだが、思いのほかマスコミや世論が反発し、撤回された。代わりにできたのが横綱審議委員会だ。