元オリックス仰木彬監督が巨人を戦力外になった清原和博に“直電”し移籍を口説いた
仰木彬(元オリックス監督)
1980年代の甲子園での大活躍からプロ入りし2008年を最後に現役を引退、そしてさらにその後まで、いい意味でも悪い意味でも野球ファンにさまざまな話題を投げかけたのが清原和博だ。高卒新人として1986年に記録した打率3割4厘、31本塁打、78打点は、いずれも今なお破られていない。
当然のことながら新人王に選出されたが、高卒1年目の野手の受賞はパ・リーグでは清原が最後(セ・リーグは88年、PL学園の後輩・立浪和義が受賞)。以降、清原は秋山幸二、デストラーデ、石毛宏典らとともに常勝西武の主軸打者として活躍した。
清原の大きな転機となったのが96年オフのFA宣言だ。巨人と阪神の激しい争奪戦の後、清原は若き日の夢をかなえるべく巨人に移籍した。
しかし、そこでの9年間は度重なるケガや首脳陣との確執もあり、本来の力は発揮できないままだった。
2004年、清原は死球による骨折で長期欠場したこともあってプロ入り後最少の40試合出場にとどまり、シーズン後には翌年の戦力構想に入っていないことが判明。契約が1年残っていたことで05年は残留を果たしたが、すでにこの04年で「巨人清原」は終わっていたといってもいい。そんな04年オフ、球界のある大物が清原に電話してきた。当時オリックスの監督だった仰木彬だ。