1996年アトランタ五輪で僕に起きた2つの幸運…不謹慎ながら最初の頃は「負けろ…」と思っていた

ここからはアマチュア時代の話をしよう。
1996年のアトランタ五輪の日本代表メンバーが発表された時、僕は東洋大4年。この五輪には「幸運」が2つ訪れた。
もともと僕はメンバー外のはずだった。東洋大の4年間、代表に呼ばれても補欠扱いの選手。それが、日本代表の不動の三塁手で五輪に出場すると思われていた仁志敏久さん(日本生命から巨人)と二塁手の松本尚樹さん(住友金属からロッテ)のバリバリのレギュラー2人が、五輪を待たず、前年(95年)のドラフトでそろってプロ入りした。当時はアマチュアしか出場資格がなかったため、当落線上だった僕が「繰り上げ」で招集されたのだ。これが1つ目の幸運である。
メンバー選出の際、僕を強く推薦してくれたのは、所属していた東洋大の高橋昭雄監督だったという。
「この大会が最後というベテランを選ぶより、将来性のある大学生の若者を入れることが、日本の野球界のためになる」
こう猛プッシュしてくれたと、後になって知った。
公開競技だった84年のロサンゼルスで金、88年ソウルでは銀、正式競技となった92年バルセロナでは銅。各大会でメダルを獲得したものの、オールアマで世界に挑んでいた時代、キューバの壁はとてつもなく高かった。合言葉は「打倒キューバ」。アトランタ五輪までの4年間はそのためにオールジャパンが組まれた。
メンバーの内訳は、社会人が16人、大学生が4人。そのうち、松中信彦さん(新日鉄君津からダイエー)、井口資仁(青学大からダイエー)、福留孝介(日本生命から中日)など、僕を含めた10人は後にプロ入りした。日本が五輪に出場した8大会のうち、オールアマで臨んだ中では、「ドリームチーム」と呼ばれたソウル組や唯一の金メダルに輝いたロサンゼルス組より、このアトランタ組のプロ入り後の通算成績が一番いいそうだ。確かに強打者が揃っていた。
それでも五輪本番が始まると、予選リーグで大苦戦。初戦のオランダには12-2でコールド勝ちしたものの、
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