俗語を巧みに活用した名訳
「水滸伝1~5」井波律子訳 講談社学術文庫/1780円~1860円+税
昨年9月に刊行が始まった「水滸伝」の完訳が完結した。400字詰めで7300枚に及ぶこの大長編を月1巻のペースで出していくには、訳者、編集者、校正者その他の並々ならぬ労苦が想像される。
「あとがき」によると、この完訳の話が出たのが2013年の夏というから刊行までにわずか4年、驚異的なペースである。もっとも、「中国の五大小説 下」(岩波新書、2009年)の中で引用されている「水滸伝」の文章はすべて自ら訳したものだというから、ある程度の準備ができていたとは思うが、それにしてもこの「語り」の濃厚な文体を現代語に移し替えていくのは相当な労力が必要だったに違いない。
例えば山門の仁王像に狼藉をはたらき、酒に酔った魯智深がヘドを吐く場面。吉川幸次郎・清水茂訳、駒田信二訳ともに周囲の連中が「善哉」といって口と鼻をふさぐが、井波訳では「あれまあ!」となっている。このように会話には俗語を巧みに活用し、地の文は簡潔で小気味のいいリズムで語られ、この大長編を飽きさせることなく前へ前へと進められる。また詩や詞には、原文、訓読、現代語訳が付されていて、原文の語りのリズムをよく伝えてくれる。
「三国志」の専門家というイメージが強い井波だが、「中国人物伝」(全4巻)などでうかがわれるように守備範囲は中国文化全般に及ぶ。また翻訳家としても「三国志演義」「世説新語」「論語」の完訳を手掛けており、いずれも畢生(ひっせい)の仕事となるような中国古典の精華。これに加えて今度の「水滸伝」となると、井波がなした訳業は偉業といっても過言ではないだろう。
もっとも、本人にはそんな気負いはなく、好きなことをやっているうちに気がついたらこうなっていたといった感じなのだろうけれど。大業を終えて現在は充電中とのことだが、近いうちに「こんなのできました」と言って、またまたわれわれを驚かしてくれるに違いない。 〈狸〉