「胆斗の人」北康利著
昭和31年8月、関西電力の黒部川第四発電所が着工した。人跡未踏の地にダムを建設するという壮大な試みは、戦後復興期の急増する電力需要に応えようとする電力会社の使命であり、大いなる賭けでもあった。
腹を決めて黒四(クロヨン)ダム建設に挑んだのは、関西電力初代社長・太田垣士郎。胆の据わった名経営者として、戦後経済史にその名を刻んだ人物である。太田垣の70年の生涯を、戦後経済のうねりの中でとらえた読み応えのある評伝。
太田垣士郎は、明治27年、兵庫県城崎の町医者の長男として生まれた。小さいころから体が大きく、負けず嫌いのガキ大将で、先生も家族も手を焼いた。あるとき、口に入れて遊んでいた真ちゅうの割り鋲を誤ってのみ込み、それが原因で、見かけによらない病弱の身となってしまう。
それでも悪ガキ魂は健在で、仕事にも遊びにも、全力で取り組んだ。京都帝大を卒業後、日本信託銀行を経て阪急電鉄に入社。創業者の小林一三に鍛えられ、経営の基礎を身につける。できる男は相応のキャリアを積み重ね、52歳で京阪神急行電鉄の社長になった。
しかし、順風満帆だったわけではない。果てしない労働争議に神経をすり減らしていたさなか、成人して間もない長男と長女を、相次いで結核で失ってしまう。悲しみに耐え、「不動心」を座右の銘に掲げて、太田垣は凄みのある経営者になっていく。
57歳のとき、周囲に推されて関西電力の社長に就任。残る人生を電力事業に捧げる覚悟で臨み、黒四ダム建設を決断する。映画「黒部の太陽」にも描かれたように、大破砕帯に阻まれ、工事は困難を極めたが、ブレないリーダーのもと、社内も建設会社も一致団結、着工から7年後に竣工の日を迎えた。
しかし、歓喜の竣工後、太田垣は間もなく体調を崩し、翌年、死去。まさに命を削る大事業だった。
電力会社への信頼が失墜している現在の状況を、太田垣はどう見るだろうか。聞いてみたいものだ。
(文藝春秋 1850円+税)