「蕗谷虹児」鈴木義昭著
蕗谷虹児は大正、昭和の乙女たちの心をときめかせた叙情画家。「金襴緞子の帯締めながら」で始まる童謡「花嫁人形」を作詞した詩人でもある。その生涯は、美しく繊細な画風からはうかがい知れない苦境の連続だった。生まれ故郷の新潟から、樺太、パリ、東京と、人生の舞台も変転する。
明治31年生まれ。3人きょうだいの長男で、父は新聞記者だったが、酒の上の失敗で職場を転々とした。器量よしで病弱な母は、虹児が13歳のとき死去。一家は離散した。幼い頃から画才を発揮した虹児は、15歳のとき、同郷の日本画家、尾竹竹坡の内弟子となって上京し、日本画の基礎を学ぶ。しかし、19歳のとき、年上の人妻との恋が発覚して日本を脱出。旅絵師として樺太を放浪した後、竹久夢二の紹介で少女雑誌の挿絵を描き始めた。はかなげな美少女の絵が乙女心をつかみ、たちまち売れっ子になった。後輩の妹でまだ15歳のりんと祝言も挙げた。
しかし、挿絵画家ではなく「画家」を目指す虹児は満足しない。大正14年、2歳の長男を日本に残し、若い妻とともに神戸港からパリに向かった。画学生として勉強し直す覚悟だった。当時のパリには、藤田嗣治や東郷青児がいた。
虹児の絵はパリの有名サロンの展覧会で入選を重ね、画商もついた。このままパリで画業に励んでいたら、「もうひとりのフジタ」になっていたかもしれない。ところが4年後、弟から困窮を知らせる手紙が届き、妻も作品もパリに残していったん帰国。意に反して二度と戻ることができなかった。
幼い長男の死、離婚と再婚、戦中戦後は里山で自給自足。戦争画も描いた。戦後は画家に専念しようとするが、熱心に請われてまた挿絵を描き始める。絵本画家としても活躍の場を広げていく。虹児は苦境のたびに立ち上がり、生まれ変わった。
乙女たちが愛した大衆画家の生涯を丹念な取材でたどり、蕗谷虹児再発見を促す力作評伝。
(新評論 2200円+税)