「長崎の痕」大石芳野著
1945年8月9日、人類史上2番目の原子爆弾が長崎に落とされた。当時の長崎の人口約21万人の3分の2にあたる約15万人もの市民が、瞬時に死傷。その後も原爆症で次々と亡くなり、原爆死没者は17万9226人(2018年)にのぼる。
本書は、原爆によって肉親を奪われ、そして自らも後遺症に苦しみ、死の恐怖と向き合い続けてきた被爆者を訪ね歩き、その話に耳を傾けてきた著者が彼らを撮影したポートレート集。
松山町の爆心地一帯には、約300世帯1860人が住んでいたが、生き残ったのは9歳の少女ただ1人と言われている。その人、黒川幸子さん(1936年生)は、あの日、泣きやまない妹2人を外に連れ出したところ、警戒警報も鳴っていないのに飛行音がしたので町内会の防空壕(爆心地から150メートル)に入ったとたんに入り口で「ピカーッ」となって妹の声を聞きながら気絶した。2人の妹と壕の奥にいた人々は土に埋まって亡くなり、自身も大腿骨を骨折し、右ほほに大きな傷を受けた。高校2年で父が亡くなり進学を断念して働き、27歳で結婚して、子供3人、孫3人に恵まれた。
郵便局に勤務していた谷口稜曄さん(1929年生)は、爆心地から1.8キロの住吉町で被爆。背中から腰に大やけどを負い、病院で1年9カ月もの間、伏せた状態でベッドの上で過ごし、入院生活は実に3年7カ月に及んだ。
全身に生々しい傷痕が残る谷口さんは「見せ物ではない。だが、私の姿を見てしまったあなたは、どうか目をそむけないで、もう一度よく見てほしい。私は奇跡的に生き延びたが、今もなお私たちの全身には原爆の呪うべき爪痕がある」と述べ、入退院を繰り返しながら核廃絶を訴え続けた。
ポートレートには各人の被爆体験とその後の人生が簡潔にまとめられ添えられている。今は穏やかな表情で写真に納まっているが、たった数行の記述から、その人が過ごしてきた過酷な日々が伝わってくる。
原爆に肉親を奪われた遺族もまた、悲しみと心の傷が癒えることはない。
雪浦に住む指方和子さん(1928年生)の15歳だった弟・眞夫さん(1931年生)は、瓊浦中学校(爆心地から800メートル)で学徒動員され、防衛隊警備員として学校にいた時に被爆。心配した父親が自宅から40~50キロ離れた長崎市内に向かい、学校で横たわっていた眞夫さんを見つけだし、山道を24時間歩いて連れて帰った。しかし、19日目に両親にみとられて亡くなった。母親は97歳で亡くなるまで、毎年、お盆に眞夫さんが被爆していたときに着ていた制服を取り出し、虫干ししながら抱きしめて泣いていたという。
自身も動員されていたが、体調を崩し自宅にいたため生き残った和子さんは、亡くなった友人たちに対する「申し訳ない」という気持ちを抱きながら生きてきた。
120余人のそれぞれの人生と市内に残るさまざまな原爆遺構、そして現在の長崎の姿をとらえた写真は、未来永劫に3度目の悲劇を決して起こしてはならないという全人類に対するメッセージだ。
(藤原書店 4200円+税)