「自動運転の幻想」上岡直見氏
高齢ドライバーによる東京・池袋の暴走事故、滋賀・大津の園児死亡事故など、痛ましい事件が相次ぐなか、「自動運転」への期待が高まっている。その一方で、「多くの負の面が置き去りにされている」と著者は警鐘を鳴らす。
「自動運転を宣伝する本はたくさん出ていますが、批判的な本はあまり見当たらない。注目が高まっている今だからこそ、問題点を整理して指摘しておきたいと考えました。もうひとつ、自動運転に関する言説は、テクノロジー分析など自動車側からの発想がほとんどです。歩行者側・自転車側という視点からの検討が必要とも思っていました」
著者は30年以上にわたって交通関係の研究を続けてきた。最近の事例も含め、多角的な視点から自動運転の“幻想”を指摘する。
「自動運転は、自動化レベルによって0から5まで、6段階に分かれています。現在、日本の公道で走行可能なのは[レベル2]までですが、将来的に[レベル5]を目指すと政府は言っている。とはいえ[レベル3]までは、システムが警告を発した場合など、一定の条件下でドライバーの対応が課せられますし、たとえ[レベル5]が実現しても、システム異常時など人間の介入が必要な局面は出てくるでしょう。しかし、例えば乗車中に寝ていた人が、緊急アラームが発動された途端に運転を代わることは可能なのか。
人間と機械の受け渡し部分についてはあまり議論されていませんが、これは大きな問題です」
そもそも車を自動運転化する構想は古くからあり、1939~40年のニューヨーク万国博覧会でゼネラル・モーターズ社が提案をしている。にもかかわらず80年経っても実現していないとも言えるが、その理由ともなるさまざまな課題を著者は分析していく。
例えば、AIをはじめとする技術的課題だ。「車線変更」や「開かずの踏切」といった複雑な局面でどう対応するか。どちらにハンドルを切っても大事故や人的犠牲が予想される状況(トロッコ問題)で、AIはどう判断すべきなのか。本書には論点と対策がつづられる。
「法整備の問題も課題です。自動運転車が事故を起こした場合、責任は車の製造元が取るのか、AI開発者なのか、同乗の人間にも責任はあるのか。法整備なしに自動運転車を普及させることはできません」
とはいえ、高齢ドライバーが増える今、事故を減らすための策として自動運転への期待は高まっている。
「自動運転化以前にできることがあります。例えば、いくらアクセルを踏んでも30キロまでしかスピードの出ない車を造って地域限定で走行可能にするとか、多くの事故の要因となっているアクセルとブレーキの踏み間違い防止装置を搭載するとか。これらは自動運転より、はるかに容易なはずですが、実現していません」
背景のひとつには、自動運転をビジネスチャンスと捉える企業や、多額の補助金を出す国の思惑があるようだ。著者は90年代から自動運転と原発の関係を指摘してきた。その上で、歴史・文化的背景も見逃せないと語る。
「歴史的に見て、交通の自由、移動の自由が基本的人権のひとつだという認識が日本には乏しかったこともあります。しかし本来、移動の自由は生活の質(QOL)に直結する問題で、高齢化、過疎化が進む今、安全で自由な移動をどう確保するかは避けて通れない課題です。我々がほしいのは移動の自由なのか、自動運転なのか、この本で考えていただきたいですね」
(緑風出版 2500円+税)
▽かみおか・なおみ 1953年、東京都生まれ。環境経済研究所代表。77年、早稲田大学大学院修士課程修了。技術士(化学部門)。77~2000年に化学プラントの設計・安全性評価に従事。02年から法政大学非常勤講師(環境政策)。交通問題、環境問題に一貫して取り組む。著書に「高速無料化が日本を壊す」「鉄道は誰のものか」「日本を潰すアベ政治」など多数。