「殺しの柳川日韓戦後秘史」竹中明洋著
「殺しの柳川」の異名を取る在日ヤクザの首領、柳川次郎は、もう一つの知られざる顔を持っていた。堅気となった後半生、日韓の懸け橋たらんと力を尽くしたのだ。一人の男の生き方を、複雑な日韓関係史と絡めて描き出した渾身のノンフィクション。
1923年、日本の統治下の釜山で生まれた柳川は、7年後、家族とともに大阪に渡った。戦後の混乱期、貧困と差別にあらがって暴力で生き抜く道を選ぶ。58年に柳川組結成。同胞を助ける任侠の親分という柳川像がつくられていく。しかし、全盛期は長くなかった。経済成長とともに裏の力は削がれ、柳川組は広域指定暴力団に。柳川自身は恐喝で逮捕され、5年後、獄中で組の解散を告げた。
ここから柳川の人生の第2幕が上がる。朝鮮半島にルーツを持つことに目覚め、暴力組織の首領としての所業を償いたいと考えるようになった。
74年、祖国発展と日韓交流を目指して日韓親善友愛会を設立し、同年、韓国大統領・朴正煕の招きで44年ぶりに祖国の地を踏んだ。翌年にはアントニオ猪木、大木金太郎を引き連れて韓国プロレス興行を実現。柳川は持ち前のオーラと在日人脈で活動の場を開いていった。日韓の政治家との交流も生まれた。
知られていなかった柳川像が、丹念な取材で描かれる。獄中で覚えたという書は見事な腕前。日本人が忘れているような古風な武士道や任侠の精神を重んじた、と側近のひとりは語っている。
ヤクザから足を洗って徳を積みたいと願った柳川だが、その素朴な思いはかなわず、晩年、組の再興を考えていた節がある。暴力を捨てても、揉め事を持ち込む周囲が柳川に期待するのは暴力。世間は「殺しの柳川」を忘れてはくれない。日韓関係も思う方向には向かわず、民主化が進んだ韓国は、裏の力を必要としなくなっていた。
91年、胃がんの手術後に体調を崩し、68歳で死去。それから30年近く経つが、日韓関係は悪化するばかりで、柳川の願いは届いていない。
(小学館 1750円+税)