「パリの『赤いバラ』といわれた女」遠藤突無也著
敗戦後の日本を飛び出してパリに渡り、国際派女優として活躍した稀有な日本人女性がいた。日本では忘れられた谷洋子の生涯をたどり、その存在にあらためて光を当てたノンフィクション。
谷洋子(本名・猪谷洋子)は1928年、エリート経済学者だった父の留学先、パリで生まれた。帰国して日本で育つが、海外に出たいという思いを募らせていく。見合い、結婚、出産という当時は当たり前の生き方に納得できなかったからだ。懸命に勉強し、津田塾大学を優秀な成績で卒業。大学時代に洗礼を受けていた洋子は、22歳のとき、カトリックの給費生として出生の地パリに旅立った。
知的で冒険心に富んだお嬢さまは、自由を求め、自立心に磨きをかけていく。ソルボンヌ大学で哲学を学ぶ傍ら、留学期間が過ぎても父の援助なしにパリで暮らしていくために、キャバレー「クレージー・ホース」のダンサーになった。小柄だがグラマラスで、エキゾチックな魅力のある洋子は、やがてマルセル・カルネ監督に見いだされ、女優の道を歩き出す。ダーク・ボガードと共演したイギリス映画「風は知らない」、ニコラス・レイ監督のイタリア映画「バレン」、ハリウッドのコメディー映画「青い目の蝶々さん」などに出演。国際派女優として認知されていく。
私生活では、甘い二枚目俳優、ローラン・ルザッフルとの結婚と離婚、男気のある年上の資産家ロジェ・ラフォレとの内縁関係など、恋も愛も謳歌し、ときに苦しみながら、洋子はいつも自分を貫いた。
洋子の祖母・万世は、鏑木清方の名画「築地明石町」のモデルとなった明治美人。母・妙子は大正・昭和のモダンガールで、婦人民権運動にも関わった才女。2人のDNAを受け継いだ洋子は、世界に羽ばたき、花を咲かせ、99年、肺がんのためパリで亡くなった。
洋子が生きた時代のパリが描かれ、洋子と関わりのあった文化人、映画人がキラ星のごとく登場するのも読みどころだ。
(さくら舎 2000円+税)