若者はいらだたしさを生きるしかない存在
若さにはかけがえのない価値があると人はいう。が、その価値は可能性という名の「まだ実現されてない価値」。つまり若者は、若さの価値を自分自身では手にすることができないという意味で、いらだたしさを生きるしかない存在なのではないだろうか。
今週末封切りの「お嬢ちゃん」は、そんな青臭いことを思い出させる映画である。
監督は二ノ宮隆太郎。主演も兼ねた前作「枝葉のこと」で注目されたが、今回は演出に徹し、自分の「若さ」にいらだつばかりのヒロインを造形した。主演の萩原みのり(役名もみのり)に当て書きされたセリフは的確で、いまその場で本人の口をついて出たように芝居くささがない。萩原も自分の内にうごめくとまどいや、不安やいらだちを全身からほとばしらせて見栄えがする。
現代の若者は「自分の値段を知り過ぎた」ようなしたり顔が多いのだが、そんな世間に流されまいと必死にあらがう姿勢が映画の骨格になった。それをまた「お嬢ちゃん」と題する度胸もそなわったあたり、監督も若さ「で」ではなく若さ「を」描けるようになったということだろう。
久坂葉子は70年近くも前、将来を嘱望されながら自らの若さと格闘し、21歳で自死した作家。書店で入手できるのは「幾度目かの最期」(講談社 1200円+税)だけだが、ネット上の青空文庫にも数編がある。以下は掌編「久坂葉子の誕生と死亡」の一節。
「新聞記者から電話をもらった。私の記事を出すと云うのだ。私は、電話口でことわった。何故なら、その企画が、絵や舞踊やピアノをやっている令嬢の絵巻とか云うテーマだそうで、私は、その中に加入されたと云うことを、甚だ侮辱にとって、ガチャリと受話器を置いた」
気位の高さともろさが同居していた彼女に共感する現代の若者は多そうだ。 <生井英考>